概 要
真里谷武田家の一族。真里谷家2代目当主・真里谷信勝の子。恕鑑の弟。当主・恕鑑死後の家督争いで、甥・真里谷信応に味方し、勝利を収める。以後は当主となった信応の補佐役となった。
ポイント
- 里見家の庶流である里見実堯の子として生まれる
- 父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、里見家の当主となる
- 北条氏と争いながらも房総に勢力を拡大し里見家の全盛期を築く
誕生・死没
- 誕生:1507年(諸説あり)
- 死没:1574年
- 享年:68歳
名 前
- 権七郎(幼名)
- 正五(入道名)
官 位・役 職
- 官位: 刑部少輔
所 属
親 族
父 | : | 里見実堯 |
母 | : | 佐久間盛氏の娘 |
正室 | : | 長野憲業の娘(長野業正の妹) |
側室 | : | 土岐為頼の娘 |
兄弟 | : | 義堯、烏山次郎室 |
兄弟 | : | 真里谷義信室、源宗 |
子 | : | 義弘(義舜)、堯元、堯次 |
子 | : | 義頼?、種姫(正木信茂の妻)、豊姫 |
略 歴
1507年 | 0歳 | 里見実堯の嫡男として誕生 |
1533年 | 26歳 | 里見家の内乱(稲村の変)勃発 父・実堯が従兄弟の義通に謀殺される 義堯が義通を破り家督を奪い取る |
1534年 | 27歳 | 真里谷家で内紛が勃発 北条氏と真里谷家の家督争いの主張が合わず対立 |
1537年 | 30歳 | 真里谷信隆を滅ぼす |
1538年 | 31歳 | 第一次国府台合戦が勃発 小弓公方・足利義明が戦死 |
1541年 | 34歳 | 北条氏綱が死没し嫡男・氏康が家督を継ぐ |
1550年 | 43歳 | 北条氏と里見氏の仲介をするため彦部雅楽頭が下向 |
1552年 | 45歳 | 北条氏康の策略により里見氏傘下の国人領主の離反が発生 |
1554年 | 47歳 | 北条・武田・今川の三国同盟が成立 |
1556年 | 49歳 | 三浦三崎の戦い(北条水軍VS里見水軍) |
1560年 | 53歳 | 北条家が里見量に侵攻 義堯、久留里城で籠城 |
1562年 | 55歳 | 剃髪して入道し、隠居する 家督を嫡男・義弘が継ぐ |
1564年 | 57歳 | 第二次国府台合戦勃発 里見軍が北条軍に敗れ上総のほとんどを北条家に奪われる |
1566年 | 59歳 | 久留里城、佐貫城を奪還 |
1567年 | 60歳 | 三船山合戦勃発(里見軍が勝利し、北条軍が上総から完全撤退する) |
1574年 | 68歳 | 死没 |
家督相続
☆ 父・実尭を殺害した、里見宗家・里見義豊(義尭の従兄弟)を殺害し里見家の家督を奪い取る。
1507年、里見家の庶流である里見実尭の子として誕生する。
1533年、父・実尭は里見家の仇敵である北条氏綱と結んで謀反を企てるが、これが主君である里見義豊にバレてしまい実尭は義豊によって謀殺されてしまう。(稲村の変)
残された義尭は、同じく父を義豊に謀殺された側近・正木時茂と共に北条氏綱の支援を受けて、上総金谷城で挙兵、義豊を殺害し父の仇をとると共に家督を奪った。(犬掛の戦い)
北条氏との抗争
★ 真里谷家の家督介入した北条氏と対立し長年にわたって抗争を繰り広げる事となる
北条氏の支援によって家督を奪い取った義尭だが、隣国の大名・真里谷家
で家督争いが勃発すると義尭は真里谷家の嫡子である 真里谷信応を、北条氏綱は庶子である真里谷信隆を擁立したため、両者は敵対関係になった。義尭は小弓公方・足利義明と同盟を結び、1537年には真里谷信隆を攻めて降伏させた。
★ 第一次国府台合戦で小弓公方・足利義明が戦死これを機に上総へ侵攻を行う
1538年、第一次国府台合戦(北条氏VS小弓公方)が勃発すると義尭も小弓公方側として戦に参陣、しかし里見軍の主力はあま出さず、結果として小弓公方・義明は戦死しこの戦いは
北条家の勝利に終わった。
これを機に義尭は情勢が不安定となった上総や下総へ積極的に進出し、上総の久留里城を本拠地として里見氏の最盛期を築き上げた。
★ 北条氏との戦いが激化、義尭は上杉家と結び北条氏と徹底抗戦の構えをみせる
1550年代になると、北条氏の家督を継いだ北条氏康の策によって里見傘下の国人領主が次々と離反、そのため1555年ごろには上総西部のほとんどが北条氏に奪われていた。
義尭は、国人勢力の抵抗を鎮圧しつつ、関東進出を図っていた上杉謙信と同盟を結び、同じく北条氏に対抗していた佐竹氏、太田家宇都宮家
と手を結び、北条氏に徹底抗戦する構えをみせた。
1560年、氏康が里見領に侵攻してくると、義尭は久留里城に籠って抗戦し、上杉軍の援軍を得て勝利し、反抗を開始して上総西部のほとんどを取り戻した。また、この頃に剃髪して入道し、家督を子の里見義弘
に譲って隠居するが、実権は握ったままだった。
第二次国府台合戦
☆ 上杉氏の要請に応じ、太田一族を救出するため北条領に侵攻する
1564年、北条方の太田康資が同族の太田資正や里見氏の要請に応じ、上杉氏への寝返りを画策した。 しかし、この作戦は失敗し、康資は資正の元へ逃亡、そのため氏康は康資・資正両者への攻撃を計画した。これに対して謙信は数少ない武蔵国人である両名の救出を里見義尭に要請。これに応じた義尭は息子である 義弘を総大将とする1万2千の大軍を敵対する千葉氏の勢力圏である国府台へ侵攻させた。
☆ 緒戦では北条方の将を次々と討ち取り里見軍有利で進むが…
里見軍の侵攻に対して千葉氏は北条氏への援軍を要請、北条軍はこれに応じ北条綱成を大将とする軍を進行させ、里見軍は国府台でこれを迎え撃った。
緒戦は北条方の先発隊である遠山綱景、富永直勝を討ち取り里見軍が攻勢だったが、北条軍の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣・正木信茂が討ち死にするなどして里見家は敗戦を喫した。
☆ 戦い後、里見家は安房国へ逃れるが、再び力を蓄え勢力を盛り返す
この敗戦により里見家は上総の大半を失い安房に退却し、里見氏の勢力は一時的に衰退することとなる。
しかし、その後は義弘を中心として里見氏は安房で力を付け、徐々に上総南部を奪回し、1566年末頃までには久留里城・佐貫城などの失地は回復していた。
これに対し上総北部の勢力線を維持していた後北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山(現三舟山)の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗した。
三船山合戦
☆ 北条家の築いた三船山砦を里見軍が攻撃…
第二次国府台合戦で勝利した北条氏は里見の上総北部・西部の里見領を占領し、里見氏の重臣であった正木時忠・土岐為頼を帰順させた。さらに、里見氏の居城である佐貫城を奪うべく、三船山(現在の呼称は三舟山、君津・富津市境)の山麓にある三船台の地に砦を築き佐貫城を威嚇した。
これに対して里見家は砦ができた場合、南に1里しか離れていない佐貫城が危機に晒されると考え義弘を総大将として三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。
☆ 里見軍が北条軍を破ったため、北条軍は上総から完全撤退する
義弘の率いる里見軍は三船台に陣取る北条軍を攻囲した。これを知った北条氏康は嫡男・氏政と太田氏資らを援軍として向かわせ、別働隊として3男・氏照と原胤貞を義堯が詰める久留里城の攻撃へと向かわせた。
これに対して義堯は守りを堅固にし、義弘は正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の本軍を攻撃して討ち破った。(三船山合戦)。
また、三浦口より海上から安房へ侵入しようと試みた北条綱成も、里見水軍と菊名浦の沖合いで交戦して損害を出している。これらの情勢により水陸から挟撃される危険を察知した北条軍は、全軍が上総から撤退することとなった。
☆ この戦の勝利によって里見家は下総にまで進出するようになった
この三船山での勝利により里見氏は上総の支配に関して優位に展開し、下総にまで進出するようになった。その後も北条氏に対しては徹底抗戦の姿勢が貫かれるが、志半ばで義堯は久留里城で死去した1574年、享年68歳であった。
逸話・人物
☆ 宿敵・北条家
1545年には安房の鶴谷八幡宮で自らを「副将軍」(関東管領の意とも言われる)として願文を納め、北条氏と関東の覇権をめぐって生涯争い続けている。北条氏康は義堯が崇敬してやまない僧侶・日我を通じて和議を申し出た事があるが、義堯は日我の申し出でもそれだけは出来ないと答えてたという逸話がある。
☆ ゲリラ戦に長けた水軍衆
里見氏が強大な勢力を誇る北条氏と争う事ができたのは、里見軍の精強さと、特に上総・安房の海賊衆を基盤とした水軍勢力を保持していたためとされている。
ゲリラ戦に非常に長けた里見方の海賊衆は、たびたび北条氏の領土で略奪を働き領民を恐れさせた(北条の水軍も同じことをやっていたが、里見のほうが上手だった。北条氏の支配下にあるはずの三浦半島の村々では、あまりに里見に略奪される回数が多かったため、年貢の半分を北条へ、残りは里見へと収めることで安全を保証して貰っていたという)。このため、氏康も一時は上総の大半を制したものの、容易に安房には侵攻することはできなかった。
☆ 北条氏からのリスペクト
堯の人柄と勇気は敵である北条氏からも認められており、「仁者必ず勇あり」と称えられていたという(『北条五代記』)。
☆ 義堯の「堯」の由来
「堯」の字は古代中国の三皇五帝の1人堯に由来するものであり、また息子にも義舜と名づけている(舜に由来)。このことから、義堯は故事に基づいた施政を布き、民にも「万年君様」として慕われていたという。
☆ 「関東無双の大将」
義堯は古代中国の思想に詳しく「関東無双の大将」とも呼ばれていた。