概 要
北条氏康の四男で、今川氏真に嫁ぐ予定である妹、「早川殿」がまだ幼かったため、代わりに幼少期を今川氏の人質として駿府で過ごした。この時期に同じ境遇であった徳川家康と知り合いになり、後に家康や秀吉との交渉役を任されることになる。小田原征伐では韮山城に長期間篭城。子孫は河内狭山藩主として存続する。
ポイント
- 北条綱成の三男
- 武蔵国守護代・大石家に養子いりする
- 軍事・外交の両面で兄・氏政を補佐
- 下野や下総方面の攻略を担当した
目 次
誕生・死没
- 誕生:1542年
- 死没:1590年
- 享年:56歳
- 墓所:大坂の専念寺
名 前
- 藤菊丸(幼名)
- 源三(通称)
- 由井源三(通称)
官 位
- 陸奥守
所 属
略 歴
1542年 | 0歳 | 北条氏康の次男として誕生 |
1556年 | 14歳 | 元服 |
1559年 | 17歳 | 大石家に養子入り |
1562年 | 20歳 | 居城を滝山城に移す |
1567年 | 25歳 | 北関東・南関東の取次を務める |
1569年 | 27歳 | 武田家が小田原城を包囲 三増峠の戦い 大石から北条姓に戻す |
1574年 | 32歳 | 関宿城を攻略 古河公方・足利義氏の後見を務める |
1575年 | 33歳 | 榎本城を攻略 「陸奥守」を名乗る |
1578年 | 36歳 | 上杉家で「御館の乱」が勃発 越後に出陣 |
1582年 | 40歳 | 本能寺の変 天正壬午の乱 |
1587年 | 45歳 | 本拠地を八王子城に移す |
1590年 | 48歳 | 小田原征伐 自害し死没 |
誕生と大石家存続
北条氏康の三男として誕生する。
1556年、14歳の時にに元服し、名前を「氏照」とした。
また、この頃に武蔵守護代である大石家の養子に入ったとされるが、具体的な領国支配は氏康が管理した。
1559年に大石定久の娘・比左を娶り、養子縁組をして「大石氏照」と名乗り、家督を譲られた。
1562年には、氏康より勝沼領を与えられて由井領に併合した。それにともなって永禄6年から永禄10年までの間に、新たな本拠として滝山城(現・八王子市)を構築し、居城をここに移した。やがて、北関東・南関東の取次を務めるようになり、北条家の外交・軍事において重要な役割を担い始めた。
武田家との争い~三増峠の戦い~
1569年、武田信玄の軍勢が小仏峠・碓氷峠を越え武蔵国・相模国に侵攻した。氏照は直ちに迎撃を行ったが、高尾山麗の廿里(現、八王子市廿里町、廿里古戦場)にて敗退。その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し、落城寸前まで追い詰められた。氏照は二の丸で指揮をとったという。その後、武田家の軍勢は滝山城から小田原城に向け侵攻を開始し小田原城を囲んだ。しかし、信玄は堅城であった小田原城を攻撃することなく包囲を開始して4日後の10月5日に城下に火を放ち軍勢を引き上げた。
撤退する武田勢を甲州街道守備軍・氏照と秩父方面守備軍・氏邦が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた氏政本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。これが俗にいう「三増峠の戦い」である。
ちなみにこの合戦後、氏照は大石姓から北条姓に戻している。
古河公方・足利義氏の後見人
氏照は1570年頃、越相同盟の締結条件として上杉謙信からも正式に古河公方と認められた・足利義氏の後見人を務め、利根川水域を支配した。
下野侵攻
1575年頃、北条家当主・氏政は下野国の侵攻を開始した。氏照は氏政の命令により下野に侵攻させ榎本城(現在の栃木市大平町榎本)を攻めて落城させた。勢いに乗る北条軍は小山秀綱の本城を攻め、12月には小山城が落城し秀綱は佐竹氏のもとに落ち延びることになる。
なお、このころになると氏照は支城の管理だけでなく、小田原城の総奉行として働くようになり、「陸奥守」を称するようになる。
越後侵攻
1578年、上杉氏の家督争い「御館の乱」が勃発すると、実弟の上杉景虎の援軍要請に応じた兄・北条氏政の名代として、氏邦と共に越後に出陣した。
北条勢は三国峠を越えて坂戸城の手前、樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし上杉景勝方は坂戸城をよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置して関東に撤退したが。その冬の期間中、景虎は景勝に追い込まれ自害し、景勝が上杉家の当主となった。
中央政権との交渉役
1579年、甲相同盟が手切りとなると、北条氏は織田信長、徳川家康の中央政権との同盟交渉を開始した。氏照その外交の担当として活躍した。
1580年には織田氏に従属の表明と氏政の言上を伝えるため宿老を派遣した。しかし、1582年、「本能寺の変」で信長が死去すると、織田領の混乱を見て甥の北条氏直らと共に織田領の上野に侵攻し、信長の家臣滝川一益を破って北条領を拡大した(神流川の戦い)。信長死後を継いだ豊臣政権からは離れ、甲斐国や信濃国に侵攻した(天正壬午の乱)
小田原征伐
1590年、豊臣秀吉の小田原合戦の際には氏照は徹底抗戦を主張し、居城である八王子城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に立て籠もった。しかし、八王子城は上杉景勝、前田利家に攻略された。小田原開城後、秀吉から主戦派と見なされ、兄・氏政と共に切腹(自害)を命じられ、田村長傳(安栖)の宅で切腹したとされる。
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辞世の句
- 「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
- 「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」
人 物
印判
宗家が「虎の印判」を使用していたのに対し氏照は、「如意成就」と刻まれた龍の印章を使用した(後に印文未詳の印章も用いている)
外交上手
外交手腕にも秀でており、「涌井文書」によると、1562年の下野国の佐野氏との外交を皮切りに、1569年には、氏邦と共に上杉氏との越相同盟の実現などを画策、伊達氏とも濃密な外交関係を築くなど活躍した。ほかにも、伊達政宗・蘆名氏との外交も担当している。氏照の外交相手は、下野国の国人、古河公方足利氏の勢力圏、そして奥州の大名達が中心であった
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辞世の句
- 「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
- 「天地(あまつち)の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」