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奥州南部まで勢力を拡大した関東常陸国の戦国大名
佐 竹
佐竹扇
家 紋
佐竹扇
出 自
佐竹氏は清和源氏の一家系であり河内源氏の流れを汲む「新羅三郎義光」の孫の昌義を祖とする。これは武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。
源義光が常陸介になって常陸に別業(別荘の事)構えて、その地を孫の昌義に付与した事に始まる。「佐竹」家名の由来については諸説あり、常陸太田市にある佐竹寺で昌義が節が1つしかない竹を見つけ、これを縁起がいいとし、佐竹氏を称したという話が伝わっている。またこの地が「佐竹郡」だったことから佐竹を名乗ったと伝わっている。
概 要
戦国時代初期の佐竹家は関東管領・上杉家から養子を迎え居れるなど関東管領上杉家と親密な関係を築いていた、しかし1490年台に入ると同続である山入佐竹氏の内紛等があり常陸国内は安定していなっかた。
しかし、「鬼義重」の異名をもつ佐竹義重によって周辺諸国、特に南奥州へ勢力を拡大していき佐竹氏の最盛期を向かえます。しかし、急激に勢力を伸ばしたため、南に北条氏、北に伊達氏と強国に挟まれ、やがて南奥州を伊達家、下野国を北条氏に侵攻されていき滅亡の危機に直面し、小田原征伐を向かえます
1590年豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に所領を安堵されると秀吉の後押しもあり常陸国の統一を成し遂げ、豊臣六大将と称されるようになります。
関が原合戦ではどちら付かずの態度をとり、徳川家康から出羽国への減転封を命じられます。
その後は、幕末まで藩主として存続します。
武 将 (名前クリックで詳細)
佐竹義信 |
佐竹氏第14代当主・佐竹義治の四男。佐竹北家初代当主として16代当主・佐竹義篤を弟の政義と共に後見人として補佐した。 |
佐竹義舜 |
佐竹15代当主。100年近く続いた佐竹の乱に終止符を打ち。佐竹氏の戦国大名化に努めたために佐竹氏の中興の祖と呼ばれる。 |
佐竹義篤 |
佐竹家16代当主。白河結城氏や那須氏と争い勢力を拡大また江戸氏を従属させ佐竹氏の戦国大名化を成功させた。 |
佐竹義昭 |
佐竹家17代当主。常陸統一に向けて勢力拡大に励み「関東管領」の誘いを断った名門の末裔。 |
佐竹義重 |
佐竹家18代当主。北条家や伊達家と互角に渡り歩き、常陸の統一を成功させる合戦では「鬼義重」と恐れられた。 |
佐竹義宣 |
佐竹家19代当主。豊臣六大将の一人にあげられる。豊臣秀吉に従軍し勢力を広げる。短歌や連歌に優れ、文武に長けた武将 |
佐竹義住 |
佐竹義信の嫡男で佐竹北家2代目。父の後を継いで佐竹北家2代当主となるが宇留野義元との部垂城の戦いで戦死する。 |
佐竹義廉 |
佐竹義信の次男で佐竹北家3代目。兄・義住の戦死により佐竹北家の家督を継ぐ。若年の宗家・義昭に仕え、東家・義堅や南家・義里らと交代で佐竹家の家政を執行した。 |
佐竹義斯 |
佐竹北家・義廉の嫡男で佐竹北家4代目。常陸南部方面の総指揮を執り、江戸家などの有力国人の指南にあたった。また、上杉家に書状を発するなど外交活動も行った。 |
佐竹義憲 |
佐竹北家・義斯の嫡男で佐竹北家5代目。佐竹義重の三男・貞隆の補佐役として岩城家入嗣に随行、植田城に入り岩城家の家政を執行した。主家が出羽秋田に転封された際、これに従った。 |
佐竹政義 |
佐竹氏の第14代当主・佐竹義治の5男として生まれる。太田城の東に居城を構えたことから、「東殿」といわれ、佐竹東家初代当主となった。 |
佐竹義喬 |
佐竹東家・義堅の長男。父・義堅から陸奥南郷方面総指南約を受け継いだ。外交面も白河結城氏や岩城氏と書状往来もあった |
佐竹義久 |
佐竹東家・義堅の次男。南陸奥方面支配の総指揮を執り、内政、軍事、外交などに幅広い活躍を見せた。石田三成を通じて豊臣秀吉とも親交を結んだ。 |
蘆名(佐竹)義広 |
蘆名家20代当主。佐竹義重の次男。白河結城家の養子となるが、のち蘆名盛隆の娘を娶り蘆名家を継ぐ。摺上原で伊達政宗の軍に敗れ、故郷の常陸(佐竹家)に逃れた。 |
岡本禅哲 |
僧侶で義篤・義昭・義重の3代に仕えた側近。外交術に長け、白河結城家や古河公方と文書を交わすなど、外交面で重要な役割を果たし、佐竹一門に次ぐ地位を得た。 |
岡本顕逸 |
岡本禅哲の子で常陸・太田松山館主。父と同様に僧侶であった。佐竹義重・義宣2代に仕えた側近。外交面で活躍したほか、義重の三男・貞隆の岩城家入嗣に随行し、岩城家の執政を取り仕切った。 |
岡本宣綱 |
岡本顕逸の子。祖父・岡本禅哲の時代から岡本氏は僧籍にあったため剃髪するが、のちに主君・義宣の命により還俗し「宣綱」と名乗った。義宣の秋田移封に従い大坂の陣にも出陣して戦功を立てた。 |
小貫頼久 |
義重・義宣2代に側近として仕え、対上杉、武田の外交面で重要な役割を果たした。知行割替時には、和田昭為、人見藤通とともに義宣の三奉行として活躍した。 |
人見藤道 |
主君・義重の命により、佐竹家譜代の家臣・人見氏の名跡を継ぐ人材登用などの内政に手腕を発揮し、。和田昭為、小貫頼久とともに佐竹家三奉行に名を連ねた。 |
江戸忠通 |
常陸の豪族。水戸城主。はじめ佐竹義篤に従うが、義篤の死後、義昭が家督を継ぐと敵対し抗争を繰り返す。のちに和睦し、再び佐竹家に従属した。 |
車斯忠 |
人質として佐竹家に仕える。側近である和田昭為を主君・義重に戯言して追放、義重の側近となる。関ヶ原合戦の際は上杉家に属した。主家転封後、水戸城の奪回を企むが敗れて殺された。 |
船尾昭直 |
出自は岩城家だが佐竹家に属し義昭・義重・義宣の3代に渡って仕え、陸奥方面における佐竹家の先鋒として活躍した。 |
梅津憲忠 |
大坂の陣では全身に傷を負いながらも奮戦、「佐竹の黄鬼」の異名をとった。のちに家老となり、武勇、政治、歌など多彩な才能をもちより主君・義宣から絶大な信頼を受けた。 |
小野崎従通 |
常陸の豪族。額田城主。佐竹家に属したが自立性が強く何度も主家に反抗した。のちに謀叛を起こすが敗れ、伊達氏や松平忠輝などに仕えた。 |