上総国西部から中部一帯を領有した、上総武田氏の一族
真里谷
四ツ割菱
目 次
年 表
1456年 | 足利成氏の命により武田信長(上総武田氏の祖・甲斐守護・武田信満の弟)が上総の上杉氏を攻撃、上総を領土にする |
1458年 | 武田信長が庁南城、真里谷城を築く |
1476年 | 長尾景春の乱勃発 |
1477年 | 武田信長が死没 |
1479年 | 太田道灌に敗れ降伏 |
1516年 | 北条家(伊勢家)と結び原氏と争う |
1517年 | 原家の小弓城を奪取し、足利政氏の子・足利義明(空然)を擁立し小弓公方を置いた |
1523年 | 真里谷信勝が死没 |
1524年 | 扇谷上杉家の要請を受けて北条氏綱と対立 |
1534年 | 真里谷恕鑑が死没 |
1537年 | 真里谷信隆と真里谷信応の家督争いが勃発 |
1538年 | 第一次国府台合戦で小弓公方・義明が戦死 |
1551年 | 真里谷信隆が死没 |
1552年 | 里見家に攻撃され真里谷信政が死没 |
1564年 | 里見家に従い第二次国府台合戦に参陣するが敗れ北条氏に降る |
1567年 | 里見家が北条軍を撃退する |
1567年 | 小田原征伐に参陣しなかったため、豊臣秀吉によって領地を没収される(真里谷家滅亡) |
家 紋
四ツ割菱
★ 引両とは…
一年草の水草であるヒシ科のヒシの実またはヒシの葉を図案化したものといわれる。(諸説あり)
一見、武田菱と違いがないように見えるが菱形同士の間隔が狭くとられているものを「武田菱」として区別する。
出 自
★ 武田氏の一族
信玄を輩出した武田家一族。祖は武田信長とされている。
武田信長は甲斐守護・武田信満の次男で、「享徳の乱」で古河公方・足利成氏の命で上総国の守護・上杉勢を攻め同国を領地として収めた。
その後、信長は上総に庁南城と真里谷城を築き、息子・武田信高を庁南城置き本家筋である「庁南武田氏」とし、信高の息子・信興を真里谷城に置き「真里谷氏」と称させた。
姓が武田から真里谷に変わったのはこの信興からだといわれている。
真里谷城 本丸跡
享徳の乱による関東騒乱
★ 太田道灌に敗れ千葉白胤に降る
1479年、関東で古河公方・足利と関東管領・上杉の戦いが激化すると上杉方の将・太田道灌は千葉自胤を千葉家の当主に擁立し、自胤に真里谷城を攻めさせた。
真里谷信興は本家庁南家の道信と共にこれに抵抗したが、最後は敗れ自胤に降参した。
★ 享徳の乱が終結すると
足利成氏と幕府(上杉家)が和睦をし享徳の乱が終結すると、道灌の勢力が衰え、千葉自胤が武蔵に撤退したため、真里谷家は再び勢力を保つことに成功する。
小弓公方の擁立
★ 三上氏や原氏との抗争
1517年、庁南氏が小弓城の原氏との間で国境をる争いが勃発した、原氏は千葉氏の支援を受けて庁南氏を追い詰めると、庁南家の分家である真理谷家は奥州を放浪していた古河公方・足利政氏の子・義明を迎え、さらに里見家の支援を受けて小弓城を奪取、 義明は小弓城に入り「小弓公方」と呼ばれるようになった。
また、同時期に真理谷家は北条家の北条家の支援を受けて、領地争いをしていた三上氏の真名城を攻略した。その後、家督を、真理谷恕鑑が継ぐと品川港などを支配下に置き勢力を拡大していった。
真理谷家の内乱
★ 真理谷恕鑑の死没後、二人の遺児による家督争いが勃発
1534年、真理谷恕鑑が死没した。恕鑑には二人の息子がいて、兄は信隆、弟を信応といった。信隆は長男だが庶長子であったため、一族は信応を家督にしようとしたがまだ幼少だったため家督は信隆が相続した。また、この時期になると真理谷家は小弓公方との関係が不和になっており、北条氏綱に従属姿勢を強めていた。
しかしその後、信隆と信応の両者は家督を巡って不和が生じ、信隆は北条家の支援を信応は小弓公方の支援得て対立した。
★ 里見家が小弓公方に寝返り信隆が逃走
1537年、遂に信応は小弓公方と共に信隆の拠点である峰上・百城の攻撃を開始、信隆は北条家や里見家に支援を要請したが、小弓公方に寝返った里見義堯にも攻められ、打つ手の無くなった信隆は降伏し北条家の許へ逃れた。
こうして、小弓御所を中心とする房総勢と北条氏の対立は決定的となった。
国府台合戦(北条氏VS小弓公方・里見軍の戦い)
★ 北条氏の圧倒的勝利に終わり小弓公方・足利義明は戦死し、再び信隆が真理谷家の家督を相続する
1538年、北条氏が河越城を攻略し勢力を拡大するとこれに危機を抱いた小弓公方・足利義明は里見義堯・真里谷信応ら軍1万を従えて北条家の領国へ侵攻した。対する北条氏も氏康や弟の長綱ら2万の軍を率いてこれを迎え討ち両軍は下総・国府台で激突した。
合戦の結果は、兵力に勝る北条軍の一方的勝利に終わり、敗れた公方・義明は戦死し、里見義堯は安房に逃げ帰り、北条家は領国を拡大、真理谷家家中でも小弓公方を頼っていた信応の勢力が弱まると、氏綱方に加わっていた信隆は北条氏の支援を受け、椎津城を本拠とし真理谷家の復権を果たした。
内乱再び
★ 信隆が病死すると再び信応が勢力を拡大し、真理谷家は里見家傘下となる
1541年ごろから、再び真里谷一族での内紛が再発した(笹子城、中尾城の内紛)。信隆は家臣の後藤氏や鶴見氏の讒言を受けて対立する笹子城の武田信茂を殺害したが、まもなくその祟りのために病没した。
信隆が死没すると、家督は信隆の嫡男・信政が継いだ。しかし、この内紛を機に後北条氏、里見氏それぞれが軍を送り真里谷武田家の勢力圏への介入を強めた。そして、1544年には信隆派の重鎮であった小田喜城城主の真里谷朝信が里見家の家臣・正木時茂に討たれ、さらに1552年には信応が里見義弘が正木・土岐らを引き連れ真理谷家の居城・椎津城を攻撃、真理谷信政は必死に防戦するが激戦の末、敗退し自刃した。
このため、真理谷家の家督は再び信応が務め、信応が死没するとその嫡男・信高が継いだ。これにより、真理谷家は里見家傘下となった。
第二国府台合戦
★ 里見家に従軍して戦うが、これに敗れ北条傘下となるが…
1563年、謙信から北条家から上杉家への寝返りが失敗した太田資正・康資の救出を依頼された里見義弘は翌年の1564年に房総諸将、約1万2千を率いて救援に出陣し、国府台城に入った。対する北条氏も2万の兵を率いて直ちに出陣し、両軍は激突した。
序盤は里見軍の優勢で戦いは進んでいったが、北条軍の奇襲によって里見軍は敗戦した。合戦に勝利した北条軍は敗走する里見軍を追って南下し、椎津城を攻撃した。この危機に真理谷家は里見家を離反し北条氏の傘下に降った。
しかし、その後、北条軍が里見家に総攻撃をしかけると、里見義弘はこれに奇跡的な勝利を収め、北条軍を撃退した。この里見軍の勝利により真理谷家は再び里見家側に付くことになる。
真理谷家滅亡
★ 小田原征伐に参陣したなっかたため豊臣秀吉により領地を没収される
1590年、豊臣秀吉が北条家討伐のため、大軍を率いて関東へ侵攻すると、北条家は関東の諸将に小田原防衛のための兵を差し向けるように檄を飛ばした。千葉氏や原氏、土岐氏らはこれに応じたが真理谷家はこれに応じず傍観していた。また、里見家も秀吉の求めに応じたが万喜城の土岐氏との合戦が遅れたため後に安房1国へ改易させられる。
その後、北条氏が降伏し小田原城が開城すると、秀吉は浅野長吉に房総半島への侵攻を命じて、北条氏に加担した勢力や中立立場だった諸将の居城を次々と落城させ椎津城の真理谷信高も徳川家康軍によって落城し、降伏した。
立場が中立だった真理谷家は豊臣秀吉によって領地を没収され、真理谷信高は那須へ落ち延び、戦国大名としての真理谷家は滅亡した。
武 将 (名前クリックで詳細)
武田信長 |
甲斐守護・武田信満の次男。結城合戦等で活躍した後に、古河公方・足利成氏に従い上総の上杉家を倒し同地を領土化する。その後、庁南城、真理谷城を築城し庁南氏と真里谷氏を輩出する。 |
武田信高 |
武田信長の嫡男。父・信長が真里谷城を築くとその城主となるが、父の隠居に伴い庁南城に入り上総武田氏の家督を継ぐ。子は武田道信(庁南氏)、武田信興(真里谷氏) |
真理谷信興 |
武田信高の子で真里谷家初代当主。真里谷城を拠点とし「真里谷」氏を称した。享徳の乱では太田道灌、千葉自胤と争うがこれに敗れ、降伏した。 |
真里谷信勝 |
真里谷信興の嫡男。真里谷家の2代目当主。同族の庁南氏と共に原家や三上氏と抗争した。また、足利政氏の子・足利義明を擁立し「小弓公方」にさせた。 |
真里谷恕鑑 |
真里谷信勝(信嗣)の子。真里谷家3代目当主。扇谷上杉家の要請を受け北条氏綱と敵対するなか、品川湊などを勢力圏におき真里谷家の最盛期を築いた。 |
真里谷全方 |
真里谷武田家の一族。信勝の子。恕鑑の弟。当主・恕鑑死後の家督争いで、真里谷信応に味方し、勝利を収める。以後は当主となった信応の補佐役となった。 |
真里谷信隆 |
真里谷家4代目当主。。信保の庶長子。父・恕鑑の死後、異母弟・信応と家督を争う(上総錯乱)。一時は居城・峯上城を落とされて逃亡したが、北条家の後援で真里谷城に復帰、家督を継いだ。 |
真里谷信政 |
真里谷第6代当主。上総椎津城主。北条家の支援を受けて里見家を討とうとするが、先手を討った里見家に破れたのち、自刃した。 |
真里谷信応 |
真里谷家5代目当主。信保の次男。父・恕鑑の死後、異母兄の信隆と家督を争う。小弓公方・足利義明の後援を受けて信隆を追放し真里谷家の家督を継ぐが、義明死後は力を失い、北条家の支援を受けた信隆に破れ里見家を頼った。 |
真里谷信政 |
真里谷家6代目当主。信隆の嫡男。上総椎津城主。父・信隆の死後に家督を継いだが、里見家の家臣・正木時茂に攻撃され自刃した。 |
真里谷朝信 |
真里谷家一族。上総小田喜城(後の大多喜城)城主。真里谷家で内紛が起きると真里谷信隆を支持したため里見義堯と争いこれに敗れ討ち死にした。 |