ポイント
- 北条氏康の次男で北条家4代当主
- 北条家の最大版図を築き地位を不動のものにする
- 豊臣秀吉の小田原征伐に屈し自害する
目 次
誕生・死没
- 誕生:1538年
- 死没:1590年
- 享年:53歳
- 墓所:神奈川県箱根町の早雲寺
名 前
- 松千代丸(幼名)
- 新九郎(通称)、截流斎(号)
官位・幕職
- 左京大夫、相模守
所 属
親 族
父 | : | 北条氏康 |
母 | : | 瑞渓院(今川氏親の娘) |
正室 | : | 黄梅院(武田信玄の娘) |
鳳翔院殿(公家の娘?食客の娘?) | ||
兄弟 | : | 氏親(兄) 、七曲殿(北条氏繁の正室) |
氏照(弟) 、 尾崎殿(千葉親胤の正室) | ||
氏規(弟) 、長林院殿 | ||
蔵春院殿(今川氏真の正室) 、 氏邦(弟) | ||
上杉景虎(弟) 、 浄光院殿(鎌倉公方・足利義氏の正室) 、 桂林院殿(武田勝頼の継室) | ||
子 | 北条新九郎(若死) 、 氏直 | |
太田源五郎(太田氏資の婿養子) 、 氏房(太田氏資の婿養子) | ||
直重(千葉邦胤の婿養子) 、北条直定 | ||
北条源蔵 、 北条勝千代 | ||
芳桂院(千葉邦胤室) 、 竜寿院(里見義頼の継室) | ||
庭田重貞室 、 鈴木繁光室 |
略 歴
1538年 | 0歳 | 北条氏康の次男として誕生 |
1552年 | 14歳 | 兄・氏親が死没 |
1554年 | 16歳 | このあたりで元服か? 甲相駿三国同盟を成立 信玄の娘・黄梅院を正室に迎る |
1561年 | 23歳 | 上杉謙信が小田原城を包囲 |
1564年 | 27歳 | 第二次国府台の戦いで勝利 |
1567年 | 30歳 | 三船山合戦で里見家に敗れる |
1568年 | 31歳 | 甲駿同盟が決裂 武田家が駿河侵攻 |
1569年 | 32歳 | 上杉家と同盟を結ぶ 三増峠の戦い |
1571年 | 34歳 | 北条氏康死没 武田家と同盟を結ぶ 上杉家と同盟を破棄する |
1575年 | 38歳 | 関東から上杉派の勢力を一掃 里見家との和睦を成立 |
1579年 | 42歳 | 武田家との同盟が破棄 徳川家と同盟を結ぶ |
1582年 | 45歳 | 武田家滅亡 本能寺の変 「神流川の戦い」が勃発 徳川家と和睦 |
1583年 | 46歳 | 古河公方・足利義氏が死去 関東の身分秩序の頂点に立つ |
1585年 | 48歳 | 相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石の最大版図を築く |
1590年 | 53歳 | 名胡桃事件が勃発 小田原征伐により自害 |
概 要
北条家4代当主。氏康の次男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の最大版図を築き北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。
家督相続まで
1538年、第3代当主・北条氏康の次男として生まれた。
本来ならば氏政は次男のため宗家の当主になることはなかったが、兄・氏親(親九朗)が1551年に若くして死没したため氏政が嫡子に立てられ、以後、「北条新九郎氏」政と名乗る。
1554年には父が武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させると、信玄の娘・黄梅院を正室に迎えた。夫婦仲は極めて良好であった。
1559年12月23日に記録的な大飢饉に対応すべく父・氏康が隠居して家督を氏政が継承し北条家の第4代当主となる。 氏康が当主を退き、新たな当主のもとで復興にあたっていくものとみられるから、以後しばらくは氏康が領国支配を主導し、両者は「御両殿」「二屋形」などと称した。
家督相続後
督相続後、氏政が最初に行なった仕事が北条家所領役帳の作成(代替わりの検地)とされている。民意を重視し、検地や徳政を行うための内政事情によって代替わりすることが北条氏のやり方であった。
上杉家への対応
1560年、甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ越後の上杉謙信が関東に侵攻し大軍で小田原城を包囲した。
北条家は苦戦を強いられたが武田家の援軍もあり上杉軍を撃退した。その後もなんどか謙信の攻撃にあうが
信玄と呼応して北関東方面に侵攻。一進一退の攻防を繰り返しつつ、上杉方に奪われた領土を徐々に奪い返していった。
第二次国府合戦
1564年、里見家との間で「第2次国府台合戦」が勃発すると、序盤は里見義弘に苦戦を強いられたが、氏政は北条綱成と共に里見軍の背後を攻撃して勝利を得た。これによって上総国に勢力を拡大した上、上総土気城主・酒井胤治らが一時的ながら北条家の傘下となった。さらに同年には武蔵岩槻城主・太田資正の長男・氏資を調略して資正を武蔵国から追い、武蔵国の大半の支配権を確立した。
三船山合戦
1567年、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻してきた。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣した。しかし、配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総国の支配権を失った(三船山合戦)
甲相駿河三国同盟の崩壊
桶狭間の戦いで今川義元が織田家に討ち取られると、武田・今川間の関係が悪化していた。そして1568年ついに甲駿同盟が崩壊し、信玄による駿河今川領国への侵攻が開始され、今川氏真(氏政の妹・早川殿の夫)は没落した。
北条氏は駿相同盟を優先して氏真方に加担したため、武田家との甲相同盟も破綻した。氏政は出陣し薩埵峠まで進出して武田軍に対抗し、一旦は信玄の勢力を追放して駿河の一部を勢力圏に収めた。
氏政は氏真を救出するため、三河国の徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するために宿敵であった上杉謙信に弟の三郎(後の上杉景虎)を養子として差し出し、上野国の支配領域を割譲して同盟を結んだ(越相同盟)。
三増峠の戦い
1569年、碓氷峠から侵攻した信玄は小仏峠の別働隊を併せて小田原城を攻撃するが、氏政は徹底した籠城戦を行い武田軍を撃退している。
この後、北条氏は甲斐国へ引き上げる武田軍の挟み撃ちを試みる。父の替わりに本隊を率いた氏政は、武田軍を追って弟の北条氏照・氏邦等が布陣した津久井領三増峠(現愛川町)より数里南方の荻野(現厚木市)まで進軍。この事態に対し武田軍は、進軍を早めるために小荷駄を捨ててまで迅速に帰国を目指していた。それに比べて追撃が遅延した氏政の到着を待つことなく、三増峠の氏照・氏邦隊は攻撃を開始したため挟撃にならなかった他、津久井城の内藤氏指揮下の予備戦力の津久井衆が武田側の加藤丹後によって押さえられて出陣できなかった。武田軍も北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により殿軍の浅利信種や浦野重秀が討ち死などの損害をだしたものの、終わってみれば武田軍に敗北し、甲斐への帰国を許してしまうこととなった(三増峠の戦い)。
東駿河国の情勢
その後も信玄が伊豆・駿河方面に進出するとこれに対抗するが、蒲原城、深沢城等の駿河諸城が陥落し、後見役であった父が病気がちになり戦線を後退。
1570年には駿河国の北条方支配地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけとなり、事実上駿河国は信玄によって併合された。
甲相同盟の終結
1571年に父・北条氏康が病没すると、氏政は信玄との同盟を復活させた(氏康の遺言)と同時に謙信との越相同盟を破棄した。1572年の信玄の三河・織田領国への侵攻の際には、諸足軽衆の大藤秀信(初代政信)や伊豆衆筆頭で怪力の持ち主とされる清水太郎左衛門など2,000余を援軍として武田軍に参加させている。
三船山合戦
1567年、里見義堯・義弘父子が上総奪還を目指して侵攻してきた。氏政はこれを撃退しようと上総東部の低山である三舟山(君津市)に着陣した。しかし、配下の国人が侵攻軍に内通、三崎水軍の侵攻も遅滞した状況で、義堯に敗退。上総国の支配権を失った(三船山合戦)
上杉・武田との争い
関東から上杉派を一掃
甲相同盟復活後、氏政と謙信の戦いが再び始まった。
1574年に謙信が上野国に進出すると氏政も出陣し、利根川で対陣した。しかし謙信の関心は既に越中国に向けられており、決戦には至らなかった。
その後、悲願でもあった簗田晴助の関宿城を攻め落とし、1575年には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とした。更に下総国の結城晴朝が恭順するなど氏政の勢力は拡大してゆき、上杉派の勢力を関東からほぼ一掃した。
1577年には上総国に侵攻し、宿敵・里見義弘との和睦を終結させた(房相一和)。
御館の乱
1578年に謙信が死去すると、上杉景勝(謙信の甥)VS上杉景虎(氏政弟・謙信養子)で後継者争いが勃発(御館の乱)
氏政はこの時、下野国において佐竹氏・宇都宮氏と対陣中であったため、5月に景虎援助のために氏照、氏邦らを越後国に派遣した。
また、同盟者で義弟(妹・桂林院殿の夫)の武田勝頼にも援軍を依頼した。勝頼は景虎支援のため北信濃に出兵するが、景勝は北信の上杉領や上野沼田の割譲を条件に勝頼と和睦した(甲越同盟)。
勝頼に裏切られた北条家は氏照・氏邦を越後に進軍させるが、坂戸城での頑強な抵抗にあって冬の到来による積雪で、無念の撤退を強いられた。その翌年1579年に景勝が乱を制する形で景虎は自害した(その後、勝頼の妹が景勝に嫁いだ)。
武田勝頼との戦い
景勝に裏切られた氏政は甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結び駿河の武田領国を挟撃した。1580年に勝頼を攻めて重須の合戦が起きたが、勝負はつかなかった。しかも、上野国では勝頼の攻勢が続き、上野下野国衆も武田方に転じたため、劣勢に陥っていた。この頃、氏政は織田信長に石山本願寺を降伏させて勢いづく織田信長に臣従を申し出ている。また、氏直に家督を譲って隠居するが、これは在陣中の異例のもので、父に倣い北条家の政治・軍事の実権は掌握したとされているが、黒田基樹は発給文書の分析から、内政面と軍事の一部の権限は早い時期に権限を氏直に移譲して、氏政は外交と軍事の主要部分を担当したとしている。
織田家との外交
武田家滅亡
1582年、織田信長が甲州征伐に乗り出すと。氏政もこれに呼応し駿河国の武田領に侵攻した。3月11日に勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院殿と共に自刃し、甲斐武田氏は滅亡した。
織田家との外交
信長は滝川一益を上野厩橋城に派遣して関東管領とし、上野西部と信濃国の一部を与え、関東の統治を図った。
北条氏は既に織田家から姫を迎えて婚姻することを条件にして、織田の分国として関東一括統治を願い出ていたが、これについて信長から明確な回答がなかったため、下野祇園城を元城主の小山秀綱に返還する等、織田氏の関東支配に協力している。氏政は長年の宿敵であった武田家を簡単に滅亡させた織田信長の勢威を恐れていたと考えられる。
『信長公記』によれば、氏政は信長に祝儀のための贈り物をしたと伝わる。氏政は長年争った武田家を迅速に殲滅させた信長の軍事力の強大さを認識し、織田家と友好関係を保つことを願っていた。しかし、信長は北条氏に好意的な対応を見せず、むしろ刺激するようなことをしていた。
本能寺の変後の動向
滝川一益との戦い
1582年、京都本能寺において信長が明智光秀の謀反により死去した。
信長の死を知った氏政は氏直と氏邦に上野奪取を命じ、5万6千の大軍を上野国に侵攻させ滝川軍と対峙した。北条軍は滝川軍の3倍の兵力であり、序盤は苦戦したが、数日後の決戦には大勝し滝川一益を敗走させた(神流川の戦い)。
この後、北条軍は敗走する一益を追って、碓氷峠から信濃国に進出し、真田昌幸・木曾義昌・諏訪頼忠などを取り込み、徳川家康傘下として旧武田兵を集めて決起した依田信蕃等を討って小諸城に駐屯し、信濃東部から中部にかけて占領下に置いた。
徳川家康との戦い
空白地帯と化した甲斐国に侵攻した家康は、北条方についた真田昌幸を調略し、徳川方の小笠原貞慶への肩入れなどにより北条軍と対立した(天正壬午の乱)。
その後、甲斐若神子において氏直と家康は対陣したが(若神子の戦い)、甲斐国においても北条氏忠・北条氏勝が、黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗北し、情勢は不利となった。このため氏直と家康の娘・督姫を結婚させることで和睦した。領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野国を北条領とすることで合意したが、信濃国の佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は不利な講和条件だった。しかも家康についた真田昌幸が、後に上野国の沼田城を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城にて徳川・北条と抗戦することとなり、これらの懸案が後の沼田問題さらに名胡桃事件の伏線となる。
北条家最大版図の構成
1583年に古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は関東における身分秩序の頂点に立った。また武蔵国の江戸地域、岩付領の支配を掌握し、利根川水系と常陸川水系の支配を確保、これによって流通・交通体系を支配した。
1585年には、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと手を結んで本格的に下野侵攻を開始し、下野国の南半分を支配下に置いた。また常陸南部の江戸崎城の土岐氏及び牛久城の岡見氏を支援し、常陸南部にも勢力を及ぼした。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部に及ぶ240万石の最大版図を築き上げた。
小田原征伐
小田原征伐
1588年、天下をほぼ掌握した豊臣秀吉が氏政・氏直親子へ上洛するよう呼びかけたが、氏政はこれを拒否した。
そのため京では北条討伐の風聞が立ち、北条氏も臨戦体制を取るに至ったが、北条家の盟主・徳川家康の計らいによりこれは回避させられた。
1589年2月には北条家家臣・板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請した。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡された。
しかし、上洛について、氏政は新たに1590年の春か夏頃の上洛を申し入れたが、それを秀吉が拒否したことにより、再び関係が悪化し始める。
こうした状況の中の10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による『名胡桃城奪取事件(北条氏が無断で真田氏の名胡桃城に攻め込む)』が起きた。秀吉はすぐに家康、景勝らを上洛させ、諸大名に対して1590年春の北条氏追討の出陣用意を促した。また、秀吉は津田盛月・富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰して即刻上洛するよう要求した。
これに対して氏直は、抑留・国替がなく安心して上洛を遂げられるよう要請した。また名胡桃城奪取事件について、氏政や氏直の命令があったわけではなく、真田方の名胡桃城主が北条方に寝返ったことによるもので、既に名胡桃城は真田方に返還したと弁明している。
なにかと上洛を引き延ばす氏政の姿勢に業を煮やした秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとみなし、1589年12月23日、諸大名に正式に「北条討伐」号令が発令された。対する氏政・氏直は、北条領国内の家臣・他国衆に対して小田原への参陣を命じて迎撃の態勢を整えるに至った。そして1590年3月から、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎え撃った。当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸・依田信蕃に対して勝利し、駿豆国境方面でも布陣する豊臣方諸将に威力偵察するなど戦意は旺盛であったが、秀吉の沼津着陣後には、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡って小田原城に籠城する。その後、領国内の下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等の諸城が次々と落城。22万を超える豊臣軍の前に下記の条件のもと北条家は降伏した。
ー降伏条件ー
・武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。
・氏直に上洛をさせる。
氏政切腹
しかし秀吉は、和睦の条件を破り、氏政らに切腹を命じ、氏直らを高野山に追放すると決めた。
氏直が自分の命と引き換えに全ての将兵の助命を乞い、降伏した。氏直の舅である家康も氏政の助命を乞うが、北条氏の討伐を招いた責任者として秀吉は氏政・氏照及び宿老の松田憲秀・大道寺政繁に切腹を命じた。7月11日に氏政と氏照は切腹した。享年53歳であった。
逸話
愛妻家
妻の黄梅院(信玄妹)とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられているが、氏政本人は最後まで離婚を渋っており、氏康の死の直後に武田と和睦した際には真っ先に妻の遺骨を貰い受け手厚く葬っている。
麦飯
ある日の昼時、戦陣に赴いていた氏政は、遠くで百姓が麦を刈っているのを見て、家老の松田憲秀に「あの新鮮な麦で昼飯をつくらせよ」とつい口をすべらせた。
このことが武田信玄の耳まで届くと、「さすがは氏政は大身の者だ。いうことが違う。刈り麦をすぐに飯にできると思っていたのか。麦は刈りとり、扱いで、こなして、潤して、ついて、乾かして、水に浸してから煮る。そしてやっと口にできるものだ」と笑った。
汁かけ飯
氏政が父・氏康と食事中をしているときのこと、氏政が飯に一度、汁をかけて食べた。すると汁の量が足りなかったのか、一度箸を置いてから、もう一度汁を飯椀に注いで食事を続けた。それを見ていた氏康は急に涙を浮かべ「一杯の飯に二度も汁をかけた。汁の適量すらわからないようでは人心などわかるまい。北条家もわしの代で終わりか」とため息をついたという。