関東での覇権を確立し北条家の全盛期を築いた

北条 氏康ほうじょう うじやす

北条氏康

北条氏康の肖像画
(小田原城天守閣所蔵模本品、原本は早雲寺所蔵)

  ポイント

  • 北条氏綱の嫡男で北条家3代当主
  • 関東での覇権を確立し北条家の全盛期を築く
  • 戦国三大野戦の一つ「河越夜戦」で大勝利
  • 武田氏・今川氏との甲相駿三国同盟を成立させる
  • 知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家

誕生・死没

  • 誕生:1515年
  • 死没:1571年
  • 享年:57歳
  • 墓所:神奈川県箱根町の早雲寺

名 前

  • 新九郎(通称)、太清軒渾名(号)
  • 相模の獅子(渾名)、相模の虎(渾名)

所 属

親 族

北条氏綱
養珠院宗栄(鎌倉北条氏の末裔とされる横井氏の出身)
正室 瑞渓院(今川氏親の娘)
側室 遠山康光室の姉妹
松田殿(松田憲秀娘)
兄弟 北条為昌北条氏尭
   大頂院殿(北条綱成の正室) 、 浄心院高源院(太田資高の正室)
   芳春院(足利晴氏の室) 、 ちよ(葛山氏元の正室)
   蒔田殿(吉良頼康室) 、 北条綱成(義弟)
  
氏親氏政 、七曲殿(北条氏繁の正室)
   氏照 、 尾崎殿(千葉親胤の正室)、氏規
   長林院殿 、 蔵春院殿(今川氏真の正室) 、 氏邦
   上杉景虎 、 浄光院殿(鎌倉公方・足利義氏の正室) 、 桂林院殿(武田勝頼の継室)

略 歴


1515年 0歳  北条氏綱の三男として誕生
1529年 15歳  元 服
1530年 16歳  「小沢原の戦い」にて初陣(VS上杉朝興)
1537年 23歳  河越城を攻略
1538年 24歳  第一次国府台の戦いで勝利
1541年 27歳  父・北条氏綱が死去
家督を継ぐ
1545年 31歳  「第2次河東一乱」が勃発
1546年 32歳  河越夜戦で大勝
1549年 35歳  関東で大地震発生
1550年 36歳  公事赦免令を発令
1551年 37歳  関東管領上杉家の平井城を攻略
1552年 38歳  関東管領・上杉憲政を関東から追放
1554年 40歳  古河城へ侵攻し古河公方・足利晴氏を幽閉
甲相駿三国同盟が成立
1559年 45歳  家督を次男・氏政に譲り隠居※実権は握ったまま
1560年 46歳  上野国内の領国化に成功
上杉謙信が関東に侵攻
1561年 47歳  謙信が小田原城を包囲
謙信が関東から撤退
1564年 50歳  第二次国府台の戦いで勝利
1565年 51歳  第一次関宿合戦で敗れる
1568年 54歳  武田家が今川領に侵攻し甲相駿三国同盟が破棄される
北条家と武田家が対立
1569年 55歳  越相同盟
三増峠の戦い
1570年 56歳  中風(半身不随、手足のまひなどの症状)をわずらう
1571年 57歳  病死

概 要

北条家3代当主。氏綱の嫡男。武田信玄・上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東での覇権を確立し一大王国を築いた。知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家としても著名。

家督相続まで

北条家第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。幼名は「伊勢伊豆千代丸」で、北条家を築いた北条早雲もまだ存命しているときだった。

15歳頃に元服。初陣は1530年「小沢原の戦い」での上杉朝興(扇谷上杉家)との戦いで、氏康はこれに大勝したと伝えられている[1]。その後も氏康は武田家との「甲斐山中合戦」や扇谷上杉家との「河越城攻略戦」などので武功を挙げた。中でも1538年の「第一次国府台の戦い」では父と共に足利義明・里見連合軍と戦い、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取る活躍を見せた。

1541年に父・氏綱が死去したため、家督を継いで第3代当主となった。

河越夜戦

1545年、関東管領・山内上杉家と扇谷上杉家と古河公方の連合軍は駿河の今川家と連携し、氏康に対して挙兵した。
氏康はすぐに東駿河に出陣するが、今川家の勢いに押され北条軍は不利な状況だった。そんな中、関東では山内上杉・扇谷両上杉率いる反北条連合が北条綱成が守る河越城を8万ともいわれる大軍で包囲。東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。

氏康は東駿河の河東地域を今川義元に割譲することで今川家と和睦し、西の安全を確保。
一方河越城では北条綱成が半年にわたって篭城を続けており、今川家との戦いを収め援軍に駆けつけた氏康本軍も兵8千しかいなく圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。
1546年、氏康は河越城を包囲する大軍に奇襲攻撃を掛けた。予期しない敵襲を受けた上杉・足利公方勢は総崩れとなった。さらに綱成率いる城兵も城門を開いて古河公方の足利晴氏の陣に突入。扇谷上杉軍では当主の上杉朝定、難波田憲重が討死にするなど多数の死者をだして連合軍は撤退、この戦いで上杉氏や足利氏といった関東の旧勢力は急速に没落していくことになる。

国中諸郡退転
~税が払えない民が田畑から逃げる~

河越夜戦の後1549年に関東で発生した大地震では被災した。氏康は領民への対応が後手に回り、領国全域で税が払えない民が田畑から逃げる「国中諸郡退転」が大規模に起こるという深刻な状況に陥ってしまった。

そこで氏康は叔父・1550年4月付けで伊豆から武蔵南部にまたがる領域に「公事赦免令」を発令した。これは、田畑にかかる固定資産税を減らし新たな税金を作るなど税金にたいして改革を行った。この発布により事態を収拾したが、これは北条氏が全領国規模で行った初めての徳政(民に対しての救済)であった。

河越夜戦後の関東

河越夜戦後、氏康は上杉憲政(関東管領)の居城・平井城を攻め1551年に攻略することに成功し、憲政を厩橋城、さらに白井城へと追い詰め、1552年には憲政を越後に逃亡させるまで追い詰めた。

山内上杉家を越後まで追い詰めた氏康は関東における反北条派の攻略に動き出した。1553年には、真里谷武田氏を攻略していた里見氏を攻め始め、1554年には古河公方・足利氏の古河城へ侵攻し足利晴氏を秦野に幽閉。さらに武蔵守護代・大石氏には三男・氏照、武蔵国の有力国衆・藤田氏には五男・氏邦と息子を養子に送り、時間をかけながら、実質的に一門に組み入れた。
1557年には宇都宮家臣・芳賀高定の宇都宮城奪還に協力し、古河公方及び佐竹氏や那須氏など周辺の大名らに宇都宮氏への援軍要請を出している。さらに宇都宮城奪還時に壬生氏当主の壬生綱雄に対して旧宇都宮領を宇都宮氏にすべて返還するよう命令を出した。これらの行いは氏康の権力が関東管領に匹敵することを関東諸将に知らしめさせるという思惑があったために行ったという。

甲相駿三国同盟

氏康は関東の安定に尽力するため武田氏、今川氏との間で同盟を結ぶ事を決意する1554年7月、娘の早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には、武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。さらに氏康は実子の氏規を実質的に人質として、氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼に預けた(この時氏規は松平竹千代・後の徳川家康と親交を結んだとされる)。これにより背後の駿河が固まったことになり、主に武田氏と軍事的連携を強化し、関東での戦いに専念することになる。