アイヌ人との和睦を成功させ、蠣崎家の基盤を作った蝦夷の大名

蠣崎季広かきざきすえひろ

松前城

松前城

  ポイント

  • アイヌ人と和睦し道南地方の支配権を確立した
  • 蠣崎家の地盤を築いた武将
  • 13人の娘達と諸大名に娶らせた外交上手

誕生・死没

  • 誕生:1507年
  • 死没:1595年?
  • 死没:1581年?
  • 享年:89歳

名 前

  • 幼名:卯鶴丸

官職・役職

  • 若狭守

親 族

子供が多いいので割愛箇所有り

  • 父親 :蠣崎義広(槍山安東家)

  • 母親 :薦土季成の娘(秋田県出身)

  • 正室 :河野季道の娘(伝妙院)

  •  子 :長女(南条広継の正室)

  • 長男 :蠣崎峻広(暗殺される)

  • 次男 :明石元広(次男)

  • 三男 :蠣崎慶広(松前慶広)
  • ほか12男、12女

略 歴

1507年…蠣崎義広の嫡男として誕生
1545年…父親の死後家督を継ぐ
 (これに不満を持った従兄弟の蠣崎基広が謀反を起こすが歌詞の長門広益に鎮圧される)
1549年…対立していたアイヌの首長であるチコタイン、ハシタインと和睦する
 13人の娘達を奥州の諸大名に嫁がせ、安東家との関係を対等に保とうとする
1583年…三男の慶広に家督を譲り、隠居生活を送る
1595年…死去(享年89)

アイヌ人との和睦

父親(義広)の代からアイヌ人と対立し、抗争を繰り返していたが、季広は考え方を改め「夷狄の商船住還の法度」を取り決め、この講和によりアイヌ人は他国との交易において徴収した通行税などの関銭の一部をアイヌ人に支払う取り決めや、お互いの領土の取り決めを行ったとされる。 つまりアイヌ人による関所の設置を認める代わりに交易の安全性をアイヌ人が保証する取り決めという事だ。
 この後季広はアイヌ人に財産を分け与えた事から「カムイトクイ」(アイヌ語で神のように素晴らしい友)と称させていました。
なお講和は安東家の安東峻季立会いの元行われたとされる.
補足※当時の蝦夷(北海道)には米の栽培が困難であり、本土との交易が必須でした。そのため本土からは米を蝦夷からは海産品、アイヌ人が生産していた獣皮等が交易品として使われていました。


安東家からの独立

蠣崎氏は代々奥州安東氏の支配下に過ぎない小大名で、度々兵役の負担を強いられていました。
 しかし、季広は安東家との対等な関係を築こうと正室、側室の娘13人を奥州諸大名に嫁がせ婚戚関係を築きあげています。その結果三男「慶広」の時代になると豊臣秀吉の直臣となるります。
 「新羅之記録」によれば季広はこの事を大変喜び「自分はこれまで槍山屋形(安東氏)に仕えてきたが、おまえは天下の将軍の臣となった」と言い 息子を伏し拝んだと記載されています。