概 要
里見家臣。正木通綱の嫡男。大多喜城主。武勇、特に槍術に長け「槍大膳」の異名をとった。2度の国府台合戦など、里見家の合戦にはほとんど参陣した。また、真里谷朝信を討ち大多喜城を奪取するなどその勇名を近隣諸国に轟かせた。
ポイント
- 正木通綱の嫡男
- 国府台合戦など、里見家の合戦にはほとんど参陣した
- 真里谷朝信を討ち大多喜城を奪取する
- 槍術に長け「槍大膳」の異名をとった
誕生・死没
- 誕生:1513年
- 死没:1561年
- 享年:48歳
同い年の武将
名 前
- 弥九郎(通称)
官 位・役 職
- 官位:大膳亮
所 属
略 歴
1513年 | 0歳 | 正木時綱の次男として誕生 |
1533年 | 20歳 | 稲村の乱により父・時綱が死没 |
1534年 | 21歳 | 里見義堯の里見義豊討伐に参陣する |
1535年 | 22歳 | 北条氏側として扇谷上杉家と戦う |
1538年 | 25歳 | 第一次国府台合戦に参陣 |
1542年 | 29歳 | 真里谷家の勝浦城を攻撃し奪取する |
1544年 | 31歳 | 真里谷朝信を討ち大多喜城を奪い居城とする |
1561年 | 48歳 | 上杉謙信の関東出兵に参陣 死没 |
稲村の変と家督相続
☆ 父と兄が謀反の疑いをかけられ主君・里見義豊に討たれる
1513年、相模三浦一族であった正木通綱の子として誕生。
1533年、里見実堯が北条方に内通した疑いをかけられ、主家である里見義豊に攻め滅ぼされた際に実堯の側近であった父と兄もこの戦で戦死した。(稲村の変)
そのため、正木氏の家督は時茂が継ぐこととなった。
一説によると時茂は傷を負いながらも命からがら脱出したと言われている。
里見義豊討伐
★ 実堯の嫡男・義堯の寄騎として里見義豊討伐に参陣する
1534年、里見義豊に殺された、実堯の遺児であった義堯が北条氏の支援を受けて挙兵し義豊を攻撃した。時茂もこれに従い上総金谷城において挙兵して里見義豊を殺害した。(犬掛の戦い)
この戦いに勝利した義堯は安房本国に入国、そのためそれまで義堯が居城としていた上総国金谷城には時茂が代わりに入ったとされる。
里見家の主力として
★ 第一次国府台合戦
北条氏綱が扇谷上杉家と戦った際には北条方の援軍として派遣されている。
その後、里見氏と北条氏が対立すると1538年の第一次国府台合戦には里見方として参陣する。
★ 上総へ進出
隣国の上総武田氏が家督争いにより衰退すると時茂は上総進出のため居城を金谷城がある西上総から安房国朝夷郡に本拠を移し東上総へ進出した。
1542年には勝浦城を攻めてこれを奪い、さらに1544年には真里谷朝信を討ち、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪うとこれを居城とした。
その後、上杉謙信が関東へ出兵すると、時茂は里見義弘に従って嫡男の信茂とともに謙信側として参陣している。
死 没
★ 没年はいつ?
1561年4月6日に死没している。法号は長安寺殿武山正文または松徹主順。
これまでは没年は元亀末から天正初年、1576年、1578年とされてきたが、近年里見氏・正木氏ゆかりの寺院である妙音院や慈恩院から、時茂の命日を示す資料が発見され、これまで時茂の功績とされるものは第二次国府台合戦で戦死した嫡男・信茂や後に里見氏に反乱した養子・正木憲時であったとされている。安房国長狭郡宮山(現在の千葉県鴨川市)の長安寺に葬られた。
★ 上総へ進出
隣国の上総武田氏が家督争いにより衰退すると時茂は上総進出のため居城を金谷城がある西上総から安房国朝夷郡に本拠を移し東上総へ進出した。
1542年には勝浦城を攻めてこれを奪い、さらに1544年には真里谷朝信を討ち、その所領である小田喜城(後の大多喜城)を奪うとこれを居城とした。
その後、上杉謙信が関東へ出兵すると、時茂は里見義弘に従って嫡男の信茂とともに謙信側として参陣している。
逸話・人物
★ 槍大膳
時茂は槍術に優れており、北条氏康書状には、「正木を始め八州の弓取り」と書かしめるほどだった。また「槍大膳」とも称されていた。
また、越前の朝倉宗滴が語った言葉をまとめたとされる『朝倉宗滴話記』には、同時代の優秀な武将が列挙されているが、その中に「正木大膳亮」の名も挙げられている、「日本に国持人使の上手よき手本と可申仁は、今川殿、甲斐武田殿、三好修理大夫殿、長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方、此等の事」