概 要
里見家6代目当主。里見義堯の嫡男。小弓公方・足利義明の遺児・青岳尼を還俗させて妻に向かえ、さらに古河公方・足利晴氏の娘も妻とした。第二次国府台合戦では北条氏に敗れたが、三船山の戦いに勝利し上総から北条氏を駆逐した。
ポイント
- 里見家6代目当主。里見義堯の嫡男
- 小弓公方・足利義明の遺児や古河公方・足利晴氏の娘も妻とした
- 父・義堯とともに里見家の最盛期を築く
誕生・死没
- 誕生:1530年(諸説あり)
- 死没:1578年
- 享年:48歳
同い年の武将
名 前
- 太郎(幼名)
- 義舜(初名)
官 位・役 職
- 官位: 左馬頭
所 属
親 族
父 | : | 里見義堯 |
母 | : | 佐久間盛氏の娘 |
正室 | : | 長野憲業の娘(長野業正の妹) |
側室 | : | 土岐為頼の娘 |
兄弟 | : | 義堯、烏山次郎室 |
兄弟 | : | 真里谷義信室、源宗 |
子 | : | 義弘(義舜)、堯元、堯次 |
子 | : | 義頼?、種姫(正木信茂の妻)、豊姫 |
略 歴
1530年 | 0歳 | 里見義堯の嫡男として誕生 |
1561年 | 31歳 | 上杉謙信の関東侵攻に従軍 |
1564年 | 34歳 | 第二次国府台合戦で北条綱成と戦うが破れ、上総国の大半を喪失する |
1567年 | 37歳 | 三船山合戦で北条軍を撃破して勢力を挽回する |
1569年 | 39歳 | 北条家と上杉家が和睦する |
1577年 | 47歳 | 北条家と和睦する |
1578年 | 48歳 | 死 没 |
家督相続
☆ 安房国の戦国大名、義尭の嫡男として生また後、父の隠居に伴い家督を相続する
里見義堯の嫡男として誕生。生誕年としては1525年説と1530年説があるが通説では1530年とされている。また、はじめは「義舜」を名乗っていた。
1562年には、父の隠居に伴い家督を継承し名を「義弘」と改めた。また、実権は義堯が握ったままだった。
第二次国府台合戦
★ 上杉氏の要請に応じ、太田一族を救出するため総大将として北条領に侵攻する
1564年、北条方の太田康資が同族の太田資正や里見氏の要請に応じ、上杉氏への寝返りを画策した。 しかし、この作戦は失敗し、康資は資正の元へ逃亡、そのため氏康は康資・資正両者への攻撃を計画した。これに対して謙信は数少ない武蔵国人である両名の救出を里見義尭、義弘に要請。これに応じた里見親子は、義弘を総大将とし1万2千の大軍を敵対する千葉氏の勢力圏である国府台へ侵攻させた。
☆ 緒戦では北条方の将を次々と討ち取り里見軍有利で進むが…
里見軍の侵攻に対して千葉氏は北条氏への援軍を要請、北条軍はこれに応じ北条綱成を大将とする軍を進行させ、里見軍は国府台でこれを迎え撃った。
緒戦は北条方の先発隊である遠山綱景、富永直勝を討ち取り里見軍が攻勢だったが、北条軍の奇襲と北条綱成との挟撃を受け、重臣・正木信茂が討ち死にするなどして里見家は敗戦を喫した。
☆ 戦い後、里見家は安房国へ逃れるが、再び力を蓄え勢力を盛り返す
この敗戦により里見家は正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって上総国の大半を失い安房に退却、里見家の勢力は一時的に衰退することとなる。
しかし、安房で力を付けた義弘は、徐々に上総南部を奪回し、1566年末頃までには久留里城・佐貫城などの失地は回復していた。
これに対し上総北部の勢力線を維持していた北条氏は、佐貫城の北方に位置する三船山(現三舟山)の山麓に広がる三船台に砦を築き対抗した。
三船山合戦
★ 佐貫城の危機に里見軍が三船山の北条軍を攻撃する
1567年、第二次国府台合戦で勝利し、上総を手中に収めた北条家は里見家の佐貫城を奪うため北条家当主の氏政自らが総督とし三船山(現在の呼称は三舟山、君津・富津市境)の山麓にある三船台の地に砦を築いた。佐貫城が危機に対して義弘は三船台に駐屯する北条軍を攻撃した。
★ 北条氏政自ら軍を率いて佐貫城を目指し進攻し両軍、三船台で激突
里見家による三船台砦の攻撃をこれを知った北条氏政は自ら江戸湾を渡海して佐貫城攻撃に向かい、弟の北条氏照には別働隊を率いて市原郡方面から義弘の父・里見義堯の居城である久留里城の攻撃に向かわせた。
義弘は正木憲時とともに佐貫城を出撃して、三船台に集結した氏政の軍を攻撃した。
戦いは激闘となったが、この戦いは里見軍が勝利し、負けた北条軍は全軍を上総から撤退、このため里見家は安房国から上総国・下総国にかけて領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築いた。
房相一和
☆ 宿敵・北条氏が上杉氏と同盟、里見家は対抗策として武田家と同盟する
1569年、上杉謙信と北条氏政の間で「越相同盟」が締結されると、里見氏は上杉氏の支援を失い苦境に立たされることになった。
このため、里見家は対抗策として武田家との同盟「甲房同盟」を結んだ。(しかし、これはあまり意味がなかったとされる)
☆ 関宿城が北条家によって没落、さらに関東における武田氏の発言力が低下
1569年11月、関東の反北条勢力にとっては象徴的な存在となっていた下総関宿城が北条氏により陥落した。関宿合戦後に武田勝頼が甲房同盟を名目に仲裁に乗り出し、里見・北条・佐竹の三氏間の停戦が実現するが、武田勝頼が長篠の戦いで織田家に敗れると武田氏の発言力が大幅に低下し、この停戦は崩壊した。
☆ 北条家の猛攻により里見家が追い込まれる
北条氏政は里見氏に対して攻勢をかけ、酒井氏・土岐氏を傘下に置くと、更に南下して上総安房国境まで迫る勢いをみせた。そうした中で両者の間で和議の動きが現れるようになった。
北条氏側の松田憲秀と里見氏側の正木頼忠間で交渉が行われ、北条氏政の娘(龍寿院)が義弘の弟(庶長子とも)ともされる里見義頼に嫁ぐことによって両氏は同盟関係に入ることになった。1577年に両者の間で和約が成立した。
死 没
☆ 久留里城にて急死
1578年、久留里城にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子とも)・義頼と嫡男・梅王丸への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招いた。
逸話・人物
☆ 統治
義弘は落首(匿名で社会や人物の欠点や罪悪を遠回しに批判した立て札)を推奨し、民衆からの声を統治に反映させていた。『里見九代記』によると義弘が領内を見回っている際に
・福原の都人とは聞きつれど 年貢につけてしなのあしさよ
という落首を見つけ、これが福原信濃守の年貢徴収の不正を告発したものであると知り、福原に処分を下している。