ポイント
- 里見家の分家
- 上総国の進出に貢献
- 義豊の後見人として権力を持つ
- 里見義豊かに暗殺される
誕生・死没
- 誕生:1484年
- 死没:1533年
- 享年:49歳
官職・役職
- 官位:不 明
親 族
里見成義を実在説
略 歴
1484年… | 里見成義の三男として誕生する(諸説有り) |
1508年… | 兄・義通の命令で上総国に進出する |
1518年 | 義通が死去。家督を「義豊」が継ぐが若年だったため後見人になる |
1526年 | 品川・鎌倉にて北条軍と衝突する鶴岡八幡宮の戦い) |
1533年 | 里見義豊に暗殺される |
出生と家督相続の謎
系譜上は、第2代・里見成義の次男とされているが、近年では兄・義通とともに安房里見氏初代・義実の子であったとの説もある。
第2代里見成義の次男で兄である義通の死後に家督を継いだとも甥・義豊の陣代(後見人)であったともされたが、近年では実堯の嫡男・義堯の家督相続を正当化するための作為による虚構と考えられている。
義通時代の活躍
実堯は軍略家としても腕がたった。義通の命を受けて上総国へ進出して金谷城を拠点として正木氏をはじめとする房総半島の水軍を手中に収めた。
里見家内での地位の確立
兄・里見義通が死去すると、里見家の家督はその嫡男・義豊が家督を継いだ。しかし義豊はまだ幼かったため15歳までという約束で実堯が後見人となった。
この頃に対岸の三浦半島に侵攻してきた北条家に対抗するため品川・鎌倉(鶴岡八幡宮の戦い)を攻撃して活躍した。
また、重臣・正木通綱(時綱)とも親密になり、家中内での権力は当主・義豊を凌ぐ勢いとなった。(一部では北条氏と通じているとの風評が流れるまでなった。)
最 期
実堯の発言力は次第に義豊の地位を脅かす存在となり他の重臣の不満も高まった。そのため1533年、当主・義豊は機先を制する形で実堯とその仲間の正木通綱を稲村城に呼んでこれを殺害した。これを稲村の変(天文の内訌)という。これをきっかけに実堯の嫡男・義堯を押し立てた上総の里見氏勢力が叛旗を翻し、翌年には義堯が義豊を殺害して家督を奪った。