下克上からなりあがり関八州240万石の一大版図を支配した大大名
北 条
北条鱗
【】
年 表
1456年 | 北条早雲が誕生 |
1468年 | 早雲が今川軍に加わる |
1476年 | 今川家で内紛が勃発 |
1487年 | 早雲が今川家の家督争いを終結させ興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた |
1493年 | 堀越公方(茶々丸)を襲撃して滅ぼし伊豆を平定 |
1496年 | 大森藤頼を討ち小田原城を奪取する |
1504年 | 武蔵立河原の戦いで山内上杉顕定に勝利する |
1506年 | 相模で検地を実施 |
1510年 | 扇谷家上杉家の江戸城を攻めるが失敗 上杉家内で永正の乱が勃発 |
1512年 | 扇谷家の岡崎城(現伊勢原市)、住吉城(逗子市)を攻略 |
1515年 | 北条氏康が誕生 |
1516年 | 三浦義同、義意父子の篭る新井城を攻略し相模全域を平定する |
1518年 | 早雲が嫡男・氏綱に家督を譲る |
1519年 | 早雲が死去 |
1521年 | 早雲の遺言により早雲寺(神奈川県箱根町)を創建する |
1523年 | 名字を「伊勢」から「北条」に改める |
1524年 | 武蔵に攻め込みで高輪原の戦いで扇谷勢を撃破する |
1526年 | 扇谷上杉、山内上杉、古河公方、武田、真里谷武田、里見しからなる北条家包囲網が形成される |
1527年 | 小弓公方と和睦 |
1530年 | 扇谷朝興方の軍勢と多摩川河原の小沢原で戦い、大勝する |
1537年 | 扇谷上杉家の本拠河越城を攻略する |
1538年 | 第一次国府台の戦いで小弓公方の足利義明を討ち取り、勝利し葛西城を攻略 |
1541年 | 北条氏綱が死去、家督を氏康が継ぐ |
1545年 | 今川義元が両上杉家と連携し挙兵する。 |
1546年 | 河越城内の北条綱成が連合軍に対し夜襲をかけ、上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した(河越夜戦) |
1550年 | 山内上杉憲政の居城平井城を攻めるが攻略ならず |
1551年 | >山内上杉憲政の居城平井城を攻める落城させる |
1553年 | 里見氏を攻め始める |
1554年 | 古河城へ侵攻し、古河公方・足利晴氏を幽閉する |
1559年 | 氏康が隠居し氏政が家督を継ぐ |
1560年 | 上杉謙信が関東に侵攻 |
1561年 | 上杉謙信が小田原城を包囲する |
1563年 | 松山城、上野厩橋城を攻略 |
1564年 | 里見家との間で第二次国府台の戦いが勃発し上総国に勢力を拡大 |
1567年 | 里見家の攻略に失敗(三船山合戦) |
1568年 | 三国同盟の廃止 |
1569年 | 上杉家との同盟が成立(越相同盟) |
1570年 | 北条氏康が死去 |
1571年 | 武田家と同盟を結ぶ(甲相同盟) |
1574年 | 上杉家との争いが再発する |
1575年 | 結城氏を恭順させ上杉勢の勢力を関東から一掃する |
1577年 | 上総国に侵攻し、里見氏との同盟を成立させる(房相一和) |
1578年 | 上杉謙信が死去し、御館の乱が勃発(上杉景虎を擁立する) |
1579年 | 上杉景虎が自害し御館の乱が終結 |
1580年 | 武田勝頼を攻めて重須の合戦が勃発 |
1582年 | 織田信長により武田家が滅亡、関東管領として滝川一益が信濃、上野に置かれる |
1585年 | 那須氏らと手を結んで下野侵攻を開始し、下野国の南半分、常陸国の一部を支配下に置く |
1588年 | 秀吉から上洛求められたが、これを拒否する |
1589年 | 北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発し豊臣秀吉が北条討伐を決意する |
1590年 | 豊臣秀吉の小田原征伐により北条家が滅亡する |
家 紋
北条鱗
北条鱗について
出 自
伊勢新九朗盛時(北条早雲)を初代とする。
鎌倉時代の「北条家」と区別するために戦国時代の「北条家」を後北条家と呼んでいる。(二つ北条家はまったく別の家である)
北条早雲は、室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる人物と言われており(生まれは岡山県井原市)、早雲の妹が駿河の今川義忠の正室となり、子・竜王丸産んでいたことからその食客となり、義忠が不慮の死を遂げると竜王丸擁立し今川家の家督を据えることに成功、その功によって駿河国富士郡に所領を与えられ興国寺城に居座った。
その後、伊豆の堀越公方の足利政和が死に政和の子・茶々丸が継母と異母弟を殺すという事件が持ち上がると、早雲はすかさず、今川家から兵300人を狩り堀越御所を奪った。これが北条家の出生である。
相模平定
伊豆を平定した早雲は韮山に新しく城を築きそこを本拠とした。のち小田原城の大森藤頼を討って小田原城を攻め落とし関東への第一歩をしるし、それから十七年たった1512年に三浦義同の篭る岡崎城を落とし、三浦半島の新井城に義同・義意親子を討ち相模国の大半を平定する
関東管領(両上杉)の一掃
2代目氏綱の時代になると国府台の戦い等で勝利し、江戸城などを占拠し武蔵にまで進出した。
3代目氏康の時代には、領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を固めるとともに、軍事面でも、河越夜戦で宿敵・扇田谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、関東から両上杉家を一掃している。甲信越同盟が成立したのもこの頃である。
北条家の最大版図
氏政が実権を掌握した頃には、越後上杉家における御館の乱、武田と上杉氏の甲越同盟を期に甲相同盟を再び手切れとし、武田氏と敵対する三河国の徳川家康や尾張国の織田信長に臣従を申し出ている。氏直の嫁を織田氏より迎えて臣従の姿勢を示している。
後北条氏は織田・徳川連合軍による甲州征伐に参加するものの実利も恩賞も無く、織田家重臣の滝川一益が関東入りし、上野国を中心に主に北関東の諸侯がこれに従う状態となった。これは北条家がその方面にこれ以上領土を広げられない、ということであり、結果の全てが北条氏にとって織田方に不信感を募らせる原因となったが、織田氏の強大さは明らかであり、氏政は同盟関係の維持を模索していた。しかし、未だ不安定な状況の最中に本能寺の変が起き、信長が死亡すると状況は一変する。
本能寺の変後
滝川一益は、広大な支配地域の経営・諸侯の調整に頭を悩まされているところであった。さらに、配下で信濃に在国していた森長可は本領に逃亡し、甲斐の河尻秀隆は一揆に遭い戦死した。こうした滝川軍に対して北条氏は、同盟の一方的な破棄を通告し、氏直を総大将とする4万6000の軍勢を上州の織田領へ侵攻させ、神流川の戦いで滝川一益を破る。滝川は関東を放棄し、本領の伊勢に帰還した。これにより信濃・甲斐・上野の広大な領土が空白地帯となり、北条氏直・徳川家康・上杉景勝が、三つ巴の戦いを繰り広げることになった(天正壬午の乱)。北条氏は一時は信濃佐久郡周辺を占領し、甲斐にも侵攻したが、戸石城主・真田昌幸の上杉氏への離反や、徳川家臣の依田信蕃の活躍などに阻まれ、両国への侵攻は失敗した。徳川との講和の結果、信濃(上杉・真田領を除く)・甲斐は徳川、上野は北条が領有することになり、未占領地は切り取り次第(実力での占領を容認)と取り決めした。
織田氏崩壊の後、徳川氏と同盟した時点での勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・下総・上総北半・上野に及び、また下野や駿河・甲斐・常陸の一部も領有しつつ、安房の里見氏とは主導的な同盟を結び、最大版図は240万石に達したといわれる。
滅 亡
日本をほぼ統一した豊臣秀吉に対して、北条家も他の大大名と同様に大名家の家格を維持すること、領民に手を出さないこと(民政不介入)を条件に恭順の意思を示していた。
しかし、1589年に上野国名胡桃において、かねてより真田家との間にあった領土紛争が拗れ、北条家家臣の猪俣邦憲が独断で真田家の名胡桃城を攻撃して、これを占領した(名胡桃城事件)。
この事件が惣無事令(大名同士の私闘の禁止)に背いたとされ、1590年に豊臣秀吉は諸大名を動員し小田原征伐を号令した。これによって戦国大名家としての後北条氏は滅亡することとなる。
主な本拠地
- 小田原城【神奈川】
- 別府城【埼玉県】
武 将 (名前クリックで詳細)
北条早雲 |
今川家の家督争いを平定し、発言力を持つ。堀越公方や扇谷上杉家臣・三浦家らを滅ぼして伊豆・相模を領国化した。「戦乱の梟雄」として名高い人物。 |
北条氏綱 |
北条早雲の嫡男。「北条」の姓を初めて使用した。扇谷上杉家との戦いや、小弓公方・足利家との第一次国府台合戦に勝つなど、着実に関東に地盤を築いた。 |
北条氏康 |
北条家3代当主。氏綱の嫡男。武田信玄・上杉謙信ら強豪としのぎを削り、関東に一大王国を築いた。知勇兼備の名将で、戦国期随一の民政家としても著名。 |
北条氏政 |
北条家4代当主。氏康の次男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の最大版図を築き北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。 |
北条氏直 |
北条家5代当主。氏政の嫡男。父や叔父の北条氏照ら強硬派を抑えることが出来ず豊臣秀吉の小田原征伐軍の攻撃を受けた。籠城3カ月ののち降伏、高野山に上り、同地で病没した。 |
北条氏時 |
北条早雲の次男。初代玉縄城。北条家2代当主・北条氏綱とは兄弟の関係にあたる。里見義豊が鎌倉に侵攻した際に、戸部川で迎撃したとされている。 |
葛山氏広 |
北条早雲の三男。今川家に従属していた国人領主である「葛山家」へ養子として入る。長兄氏綱と今川義元が争った河東一乱の際には氏綱側に味方している。 |
北条幻庵 |
早雲の四男。北条家5代に仕え、箱根権現の第40世別当を務めた。主君・氏康の娘が吉良家に嫁ぐ際、「幻庵おほへ書」という心得書を与えた。 |
北条為昌 |
北条氏綱の三男。叔父・北条氏時が死去すると幼くして玉縄城主となり、大道寺盛昌の後見を受ける。花倉の乱で敗れた福島正成の子・綱成の養父となった。 |
北条氏尭 |
北条氏綱の四男。上野平井城の城将や小机城主を務め上杉謙信が関東に進出した際は河越城に入り、籠城の末、守り切った。伊達家との外交などでも活躍を見せている。 |
北条氏照 |
北条氏康の次男。軍事・外交の両面で兄・氏政を補佐。おもに下野や下総方面の攻略を担当した。小田原落城後、豊臣秀吉の命により、氏政とともに自害。 |
北条氏邦 |
北条氏康の三男。母は今川家の娘。武蔵の豪族・藤田家の養子となり家督を継承し上野方面の統治を任された。小田原征伐では鉢形城に篭城するが降伏。以後、前田利家に仕えた。 |
北条氏規 |
北条氏康の四男。幼少期を今川氏の人質として過ごす。この時期に徳川家康と知り合い後に家康や秀吉の交渉役を任されることになる。小田原征伐では韮山城に籠城するが、家康の説得で開城した。 |
北条綱成 |
今川家臣・福島正成の子。父の死後、北条氏綱を頼り、小田原で育ち氏綱の娘を娶って一門となり玉縄城主となる。河越合戦などで活躍し、その旗印より「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された。 |
北条氏繁 |
北条家臣。綱成の子。家中随一の猛将と恐れられた父に劣らず、武勇に優れていた。玉縄城主を務め、上杉謙信の関東侵攻軍を撃退するなどの戦功を立てた。 |
北条氏秀 |
北条家臣。綱成の次男。上野国沼田氏を継いで沼田城に在城していたが、上杉謙信に破れると江戸白城代として対里見氏の一翼を担った |
北条氏舜 |
北条氏繁の長男。氏繁の死後に家督を継ぎ、岩槻城主や玉縄城主を務めた。しかし、早死にし、その後の家督は弟の北条氏勝つがつとめた。 |
北条氏勝 |
北条氏繁の次男。父・兄の死後、玉縄城主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際は山中城を守るが落城、その後は居城に籠城するが降伏、戦後は徳川家に仕えた。 |
北条氏成 |
北条氏繁の三男。小田原征伐に一環である伊豆山中城落城の際に兄・氏勝の乱心を止め氏勝を玉縄城へ連れ帰ったという。 |
北条直胤(千葉直胤) |
北条氏繁の四男。下総関宿城攻めで、武蔵千葉氏当主の千葉胤宗が戦死し、胤宗に嫡子がなかったため直胤が婿養子となり、家督を相続した。 |
北条繁広 |
北条氏繁の五男。関が原合戦後、嫡男を失った兄・氏勝の養子となり家督を相続する事になったがこれに反対した家臣に追放され失意の内に死亡した。 |
大道寺重時 |
元々は山城国に住んでいたが、北条早雲の駿河下向に従い駿河国へ同行した。早雲の伊豆国平定や政務を補佐し、「御由緒六家」の一人となった。 |
大道寺盛昌 |
北条家「御由緒六家」の一人。大道寺重時の嫡男。また早雲の従兄弟の子にあたる。内政手腕に長けたほか鎌倉代官や河越城代を歴任し「河越夜戦」では、扇谷上杉家相手に奮闘して戦功を挙げた。 |
大道寺周勝 |
大道寺盛昌の嫡男。河越城の城代となったに代わって鎌倉代官となり、父の死後に河越城代となった。武田信玄による駿河侵攻に対しては今川義元の救援に駆けつけている。 |
大道寺政繁 |
北条家の宿老・大道寺盛昌の子(諸説有り)。河越城主を務め城下の繁栄に貢献した。小田原征伐では松井田城を守備したが、すぐに降伏し道案内を務めたが、秀吉によって自害させられた。 |
大道寺直繁 |
大道寺政繁の嫡男。北条氏直より偏諱を賜い直繁と名乗る。北条家滅亡後は北条氏直と共に配流先の高野山へ同行した後、徳川氏に仕える。 |
大道寺直次 |
大道寺政繁の四男。主家滅亡後は遠山長右衛門と名乗り、黒田官兵衛、豊臣秀次、福島正則に仕え、関ヶ原合戦にも参陣した。福島家の改易後は徳川家に仕え、旧姓に復した。 |
大道寺直英 |
大道寺政繁の養子。小田原征伐後、徳川家康預かりとなり、家康の子・義直に仕える。のちに築城技術を見込まれ、津軽信枚に招聘されて津軽家へ移る。 |
松田盛秀 |
北条家の筆頭家老。北条家の重臣として政務に関与し活躍したほか。奉行と評定衆を務め、下総国・関宿の代官を兼務した。 |
松田憲秀 |
北条家の筆頭家老。主に内政面で活躍した。豊臣秀吉の小田原征伐の際は小田原城への籠城を主張し採用された。のちに秀吉に寝返ろうとして失敗、戦後、自害させられた。 |
千葉胤宗 |
武蔵千葉家6代当主。梁田持助の居城「関宿城」攻めの際に戦死した。家督は北条氏繁の四男・直胤が相続した。 |
笠原政尭 |
北条家家臣。北条家筆頭家老・松田憲秀の嫡男。北条家臣・笠原綱信に養子入りする。父と共に秀吉に内応しようとしたが、弟・秀治に密告され発覚、主君の氏政に殺された。 |
松田直英 |
北条家家臣。北条家筆頭家老・松田憲秀の嫡男。北条家臣・笠原綱信に養子入りする。父と共に秀吉に内応しようとしたが、弟・秀治に密告され発覚、主君の氏政に殺された。 |
御宿友綱 |
東駿河の名家「葛山家」の一族。父は葛山綱春。武田信玄に若くして仕え、医師でもあり信玄の侍医を務めた武田家滅亡後は北条、徳川と仕えた。 |
御宿政友 |
御宿友綱の嫡男。武田家の滅亡後には北条家、結城秀康に仕えた。しかし、秀康の子・忠直の代に出奔して大坂城に入城、大坂夏の陣において戦死した。 |
長尾憲景 |
白井長尾氏8代当主。上野国白井城主。武田信玄の侵攻により所領を失うと謙信の元へ逃れた。その後、謙信が死没し「御館の乱」が勃発すると上杉氏を離れ、武田・滝川・北条に仕えた。 |