房総半島の大名 北条家と争いながらも勢力を拡大していった
里 見
二つ引両
目 次
年 表
1600年 | 関ヶ原の戦いでは結城秀康の配下の軍として宇都宮城の守備を担当し上杉景勝の南下を阻んだ |
1592年 | 文禄の役では、家康に随行する |
1590年 | 小田原征伐に参陣するが秀吉の怒りを触れたため改易(上総・下総の所領を没収) |
1588年 | 豊臣秀吉から安房国・上総国両国および下総国の一部を安堵される |
1587年 | 里見義頼が死去し家督を嫡男・義康が継ぐ |
1582年 | 天正壬午の乱で北条軍に援軍を出す(黒駒合戦) |
1581年 | 武田家と同盟を結ぶ |
1580年 | 義頼は北条氏政の支援を受けて梅王丸を出家させ里見家の実権を握る |
1578年 | 義弘が急死する |
1577年 | 北条氏と和睦を結ぶ(房相一和) |
1573年 | 里見義頼の嫡男・義康が誕生 |
1569年 | 上杉謙信と北条氏政の間で越相同盟が終結 |
1567年 | 三船山合戦で北条軍に大勝し上総の支配に成功し、下総にまで進出する |
1566年 | 久留里城・佐貫城などの失地は回復する |
1564年 | 第二次国府台合戦に破れ上総の大半を失う |
1562年 | 里見義堯が隠居し家督を嫡男・義弘に譲る |
1560年 | 北条軍が里見領に侵攻するが上杉軍の援軍を得て勝利。反攻を開始して上総西部のほとんどを取り戻した |
1556年 | 北条水軍と戦い勝利する(三浦三崎の戦い) |
1552年 | 上総西部のほとんどが後北条氏に奪われる |
1543年 | 7代当主・里見義頼が誕生 |
1538年 | 第一次国府台合戦に参加するが敗れる |
1537年 | 真里谷信隆を攻めて降伏させた |
1534年 | 里見義豊VS里見義堯(犬掛の合戦)義堯が勝利し、義豊が自害する |
1533年 | 里見義豊が実堯を襲撃し殺害する |
1530年 | 6代当主・里見義弘が誕生 |
1526年 | 里見義豊が実堯とともに北条氏を攻撃する(鶴岡八幡宮の戦い) |
1518年 | 里見義通が死去 |
1507年 | 里見実堯の嫡男として5代目当主・里見義堯が誕生 |
1505年 | 里見成義が死去 |
1488年 | 里見義実が死去 |
1484年 | 里見実堯が誕生 |
1481年 | 3代当主・里見義通が誕生 |
1448年 | 2代当主・里見成義が誕生 |
1440頃 | 安西氏を追放して安房を支配する(安房里見家の誕生) |
1440年 | 結城合戦に敗北し里見家基が死去 |
家 紋
二つ引両
出 自
里見氏は清和源氏義重の三男・義俊(庶子)を祖先とし、義俊が上野国碓氷軍郡里見郷に住み着いたことで「里見」を称した。
鎌倉時代には御家人として将軍に近侍し、鎌倉時代末の動乱では惣領家の新田義貞と行動をともにした。南北朝期には一族も分かれ、南朝方・北朝方に別れて戦った。
安房里見家の始まり
里見家基の子・里見義実(架空?)が初代とされている、義実が安房に入った経緯については確かな情報がなく、下記の3説が有力な説とされている。
1.
結城合戦の敗戦から相模の三浦から安房国に逃亡した義実は安西氏を頼り、その後神余氏を下克上した山下定兼を討伐して人望を集めて丸氏・東条氏を屈服させ、やがて驕慢になった安西氏を追放して安房を平定した。その後、足利成氏に招かれて仕えた(旧来の通説)。
2.
足利成氏に仕官後、安房国の鎌倉府領の代官をしていたが、享徳の乱で成氏と上杉氏が対立すると、義実が同国の守護であった上杉氏とこれに従う国人の所領及び彼らの管理下にあった国衙領を接収した。
3.
享徳の乱で武田信長とともに房総半島の上杉側国人を討伐する過程で安房国に割拠した。
概 要
安西家を追放し安房国の領主となった里見家は勢力を拡大し、義実の子・成義のときには久留里・万木・勝浦・等の城を傘下に治めていた。
その後、天文の内訌(里見家の内紛)が起こり、庶流である里見実堯・義堯父子が下克上を起こすと越後上杉氏と同盟を結び上総に勢力を伸ばす。
里見義弘の時代になると幾度も争っていた北条氏と和睦、里見義頼は豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得ることに成功するが小田原征伐後に惣無事令違反を犯したため上総・下総は没収された。
関ヶ原の戦い後、論功行賞によって常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となった。
古河公方家の内紛
、小弓公方足利義明を奉じ、上総・下総・相模へたびたび侵入し、後北条氏をはじめとする反小弓公方派の大名・国人と争う。1526年11月26日には、里見氏の軍勢(4代当主里見義豊の後見人であった叔父の里見実堯の軍勢とされているが、当主義豊本人とする説もある)が三浦郡・鎌倉郡へ侵入し、鶴岡八幡宮を焼き、玉縄城下で北条方と戦っているが、これも小弓公方の意向に従ったものであるとされている(鶴岡八幡宮の戦い)
里見家の内紛(天文の内訌)
1533年里見家4代当主・里見義豊が叔父の里見実堯を討つ事件が発生している。
義豊は若くして家督を継いだため、義豊が15歳までの間叔父の里見実堯が後見人として里見家の実権を握るということになっていたが、15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかった為といわれている。
このまま義豊が当主を務めるかと思いきや、実堯の長男里見義堯は「仇討ち」と称して、正木時茂や北条氏と協力して叛旗を翻すと、犬掛の合戦で義堯が大勝して義豊を自害させ、里見家は庶子の義堯が家督を継ぐことになる。
天文の内訌以後
天文の内訌において後北条氏と結び第5代当主となった里見義堯であったが、その後は北条氏と手を切り、北条氏や上総武田氏とたびたび合戦を行っている。里見氏は、1538年の第一次国府台合戦における大敗、北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜け、上総に勢力を伸張した。
北条氏との争い
里見義堯・義弘の親子は、1563年および1564年の第二次国府台合戦で北条氏に敗北を喫するが、1567年の三船山合戦で北条氏を破り、上総での勢力圏を確固たるものにした。北条氏が上杉氏と連携すると、これに対抗して義弘は甲斐の武田氏と同盟を組み(甲房同盟)、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになり、最盛期を迎えた。だが、1574年に義堯が没した頃より北条氏の巻き返しが発生し、1577年、里見義弘はたびたび交戦した北条氏政と和睦(房相一和)して下総から撤退し、以後領国経営に専念する。
豊臣政権かと関が原合戦
義弘が1578年に没すると、嫡子梅王丸と弟義頼(義弘の庶子とも)との間で家督争いが発生し、また上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いを制して当主となった里見義頼は豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得ることに成功する。
義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原征伐に参陣するも、惣無事令違反を犯したために秀吉の怒りを買った。これにより上総・下総は没収され、安房一国のみが安堵された。このとき徳川家康がとりなしたことにより、以降里見氏は徳川氏と親密な関係になる。
1600年の関ヶ原の戦い後、論功行賞によって常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となった。
主な本拠地
- 稲村城【千 葉】
- 久留里城【千 葉】
武 将 (名前クリックで詳細)
里見義実 |
通説では安房里見家の初代当主として里見家の基礎を築いた人物とされているが近年では架空人物説、美濃里見氏庶流出身説などがある。 |
里見成義(架空?) |
里見氏2代当主とされる人物。実在したという証拠がないため、架空人物とする説が有力。 |
里見義通 |
里見氏第3代当主。小弓公方・足利義明に従い里見家を安房一国の戦国大名としての基礎を築いた人物。 |
里見義豊 |
安房里見氏の第4代当主。里見義通の嫡男で里見宗家最後の当主。北条家と結んだ叔父・里見義堯に破れ破れ自害する。 |
里見実堯 |
里見氏の庶流だが、宗家以上の権力を持った。北条家と結んだため、宗家である里見義豊に暗殺される。 |
里見義堯 |
里見氏5代当主。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、里見家の当主となる。国府台合戦では北条氏康に敗れたが、その後も房総に勢力を広げ、北条家と戦い続けた。 |
里見義弘 |
里見氏6代当主。義堯の長男。上杉謙信と結んで北条家と争う。国府台合戦では北条軍に敗れたが、のちに勢力を回復した。父の死後、北条家と和議を結んだ。 |
里見義頼 |
里見氏7代当主。義堯の次男。里見梅王丸(兄・義弘の子)に出家を強要し、家督を継ぐ。この一件に憤激し謀叛を起こした正木憲時を討ち、上総を平定した。 |
里見義康 |
里見氏8代当主。義頼の子。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参したため、安房1国のみを所領安堵された。のちに館山城を築く。関ヶ原合戦では東軍に属し、安房国館山藩初代藩主となる |
正木通綱 |
三浦義同(道寸)の子とされている。諸説あるが北条氏によって相模三浦氏が滅ぼされると、安房国正木郷に落ち延びて、成長した後に、里見氏によって重臣に抜擢されたと言われている。 |
正木時茂 |
里見家臣。正木通綱の嫡男。大多喜城主。武勇特に槍に長け「槍大膳」の異名をとった。2度の国府台合戦をはじめとする里見家の合戦にはほとんど参陣し、勇名を近隣諸国に轟かせた。 |
正木時忠 |
里見家の重臣。正木時茂の末弟の弘季もしくは正木時忠の子という。伯父・時茂の養子となって正木家の家督を継ぐ。主君・義頼の強引な家督相続に憤激して謀叛を起こすが敗れ、家臣に殺された。 |
正木信茂 |
里見家臣。里見家の重臣・正木時茂の嫡男。父・時茂が死没すると正木家の家督を継ぎ里見軍の中心的な人物として活躍するが第二国府台合戦で戦死した。 |
正木憲時 |
里見家臣。里見家の重臣・時忠またはその末弟・弘季の子という。伯父・時茂の養子となって家督を継ぐ。主君・義頼の強引な家督相続に憤激して謀叛を起こすが敗れ、家臣に殺された。 |