ポイント
- 佐竹義舜の次男で佐竹16代当主
- 弟の義元と家督を争う
- 勢力を拡大し佐竹氏の戦国大名化を成し遂げる
誕生・死没
- 誕生:1507年
- 死没:1545年
- 享年:38歳
官職・役職
- 官位:大膳大夫
親 族
略 歴
1507年… | 佐竹氏第15代当主・佐竹義舜の次男として生まれる1517年… | 父・義舜が死去し家督を継ぐ(幼いため叔父の北義信が後見人となった) |
1529年… | 弟・佐竹義元が反乱を起こす |
1535年… | 佐竹一族の高久義貞が反旗を翻した 江戸忠通らと和睦し高久義貞の反乱を鎮圧 |
1539年… | 那須政資・那須高資親子の抗争に介入 |
1540年… | 部垂城を急襲して弟の宇留野義元を自害に追い込み反乱を終息させた |
1545年… | 死 去 |
概 要
竹家16代当主。実弟・義元と家督を争い、たびたび合戦を行うが、部垂城の合戦で義元を討って支配権を確立。佐竹一門による領国支配体制を成立させた。
また、白河結城氏や那須氏と争い勢力を拡大また江戸氏を従属させ佐竹氏の戦国大名化に成功させた。
家督相続
1507年、佐竹氏第15代当主・佐竹義舜の子(次男か)として生まれる。
兄で庶子にあたる今宮永義(ながよし、今宮道義の祖父)が、伯父の今宮周義(義舜の兄)の跡を継いだため、義篤が嫡男となった。1517年、父・義舜の死去に伴い、幼年ながら佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北義信が後見人となった。
度重なる家中内の反乱
若き義篤は佐竹家中を統率するだけの器量に欠け、弟の佐竹義元とは不和が生じ、ついには義元は1529年に反乱を起こし小貫俊通の居城・部垂城を攻撃、陥落させ部垂氏を名乗ります。
また、岩城成隆・江戸忠通が佐竹氏の領域に侵略すると、1535年にこれに呼応する形で、佐竹一族の高久義貞も反旗を翻した。これに対し義篤は、伊達稙宗の斡旋で江戸忠通らと和睦し、孤立して進退窮まった義貞を降伏させて、反乱は終結させた。
1538年には、佐竹一族の宇留野長昌が反乱を起こした。
1540年には部垂城を急襲して宇留野義元を自害に追い込み、高久義貞の謀反に続いて義元の反乱を終息させ(部垂の乱)、義元に与した兄・今宮永義や小場氏や前小屋氏らも支配下におさめた。
対外的な戦略
1539年には、那須政資・那須高資親子の抗争に介入し、義弟の小田政治と共に政資を支援した。
また、白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一して佐竹氏の戦国大名化に成功した。
また、室町幕府奉公衆であった美濃佐竹氏の佐竹基親の下向をきっかけに幕府との関係を再構築している。
伊達氏の天文の乱が起きると伊達晴宗に味方し、伊達稙宗方の相馬氏と戦った。