松平家8代目当主。家康の父。今川家の庇護を受け領国経営を進めるが織田派の家臣によって暗殺される。

松平 広忠まつだいら ひろただ

松平広忠の墓(愛知県岡崎市鴨田町 大樹寺)

概 要

松平家8代当主。清康の嫡男。徳川家康の父。今川家の支援を受けて、小豆坂の戦い等で何度も織田家と争うが、最後は織田派であった家臣に殺害される(諸説あり)

 ポイント

  • 松平清康の子で松平家8代当主。徳川家康の父
  • 父・清康の死後は今川家の庇護を受け織田家と争う
  • 織田派であった家臣の岩松八弥に殺害された(諸説あり)

誕生・死没

  • 誕生:1526年
  • 死没:1549年
  • 享年:24歳
  • 墓所:愛知県岡崎市鴨田町の大樹寺ほか

名 前

  • 竹千代、仙千代(幼名)
  • 次郎三郎、三郎、岡崎三郎(通称)

官 位

  • 贈従二位大納言

所 属

親 族

松平清康
青木氏の娘
正室 於大の方水野忠政の娘)
継室 継室:真喜姫(戸田康光の娘)
兄弟 広忠 、 信康 、俊継尼(吉良義安室)
碓井姫(松平政忠室→酒井忠次室)
松平忠政恵最徳川家康
   市場姫荒川義広の妻)

略 歴(徳川幕府家譜を基に)


1526年 0歳  松平清康の嫡男として誕生
1535年 10歳  父・清康が死去
家内の家督争いに巻き込まれ命を狙われる
1539年 14歳  伊勢国へ逃亡
元服し広忠と名乗る
1540年 15歳  今川家の擁護によって岡崎城に帰拠
1545年 20歳  岩松八弥による襲撃が起こる(岡崎領主古記にはこの時殺害されたとも)
1548年 23歳  小豆坂の戦いにて織田勢と対峙し勝利する
1549年 24歳  織田勢に勝利し織田信広を捕縛する。
竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が行われる。
死没

逃亡生活

☆ 10歳の時に父・清康が死去し、家督争いが勃発したため逃亡生活が始まる

1526年、松平清康の嫡男として誕生する。
1535年、広忠が10歳の時に、清康が家臣である阿部正豊に殺害された(森山崩れ)。この混乱に乗じ、広忠の大叔父である松平信定が岡崎城を占拠し広忠と対立した。
まだ10歳と若年だった広忠は吉良持広らと共に伊勢国へ逃亡した。

☆ 元服

 伊勢国へ逃れた広忠は、吉良持広からの偏諱を受けて「広忠」と名乗り元服した。
しかし、持広はこの年に死没してしまう。

三河に復帰

★ 家臣達が織田氏へと外交変換したため三河国へ再び逃亡

持広が死没した後の吉良家では持広の養嫡子である、吉良義広が継承した。
しかし、義広は今川家から織田家へと外交変換したため、広忠は再び三河の長篠へ逃亡した。

★ 今川義元の庇護を受けて岡崎城を奪取

 広忠は今川義元の支持を得て三河「室城」へ入城、さらに岡崎城の留守居であった松平信孝松平康孝を自軍に引き抜きて岡崎城を奪取した。
松平家の家督争いは鎮静化した。

織田家との戦い

★ 織田領への侵攻

1540~1549年の間、西三河を巡って織田家との戦いが激化していく。
1542年には第一小豆坂の戦いが勃発、1545年には「渡理川原の戦い」で織田家に寝返った松平信孝と戦い、本多忠高の功績によりこれを破った。
その後、織田信秀が三河に進攻してくると、今川氏からの加勢もありこれを破ったが見返りに嫡男・竹千代(徳川家康)を人質として送ることとなった。

★ 小豆坂の戦い

1548年3月、織田信秀は岡崎城を武力で攻略するため、庶長子・信広を先鋒とし4,000余の兵を率いて安祥城から岡崎城へ進軍した。対する松平家は今川家へ救援を要請、今川義元はこれに応え、松平氏救援のため太原雪斎を大将とし約1万の兵を、出陣させた。
両軍は小豆坂(愛知県岡崎市羽根町小豆坂)で合戦となった。この戦いは数で勝る松平・今川軍の大勝に終わり、広忠は勢いそのままに「松平権兵衛重弘」兄弟の山中城を攻略、その後「菅生川原の戦い」で信孝を撃破し信孝は流矢で戦死した。
また、この翌年にも織田勢と戦い勝利し、織田信広を捕虜として捕らえた。その後、信広は織田家へ人質として捕らえられていた竹千代と人質交換された。

死亡時期と岩松八弥による傷害事件

★ 岩松八弥が広忠を脇差で両断した(または刺殺した)事件が起こる

1545年、表題の事件が勃発するが史料によって死亡していたり、いなかったり、そもそも襲撃事件の記載がなかったりなど諸説ある。
そもそも、この説が流行したのは山岡荘八の小説『徳川家康』の影響だといわれている、現にこれを史実として肯定する説がある。以下に各史料の内容を記載する。

★ 大久保忠教の『三河物語』

岩松八弥の名前および広忠襲撃事件の記載はなく、松平広忠は病死とある。

★ 『東照宮御実紀』(徳川実紀)

岩松八弥が隣国の刺客として、広忠を襲撃して一刀突いたとあるが死去とされていない、後に逝去とあるが死因に記載はない。

★ 岡崎領主古記

「佐久間」という人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公にだし、広忠を討ったとされる。広忠はこの人物を・「片目弥八」と呼んでいたという。

★ 『三州八代記古伝集』

広忠は病死したとしつつ、一説として、近侍の片目八弥に殺害されたという。

★ 植村家貞の『貞享書上』

「佐久間」という人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公にだし、広忠を討ったとされる。広忠はこの人物を・「片目弥八」と呼んでいたという。

★ 『武徳大成記』

八弥は「隣国のために」といい、刀を抜いて寝所の広忠を刺した。しかし、広忠は死なず、八弥は逃げたところを植村新六郎家政に捕らえられ、植村に首を取られたという。ちなみに広忠はこの後、病死したとされている。

★ 『三河後風土記』

広忠が、祝いの席で皆が奇芸を披露したも、一眼の岩松八弥は遊芸などを知らず、みなにバカにされたため、その翌日広忠が手洗い場に立った所を、後方から八弥が脇差で刺そうとした。広忠はこれをかわしたが傷のため追いかけることができず、植村新六郎家次が八弥を追い詰め、手傷を負うも捕らえた。
ちなみに広忠は、傷を負うも死亡には至らず、天文18年3月6日に病死したとする。