松平広忠の正室で徳川家康の母

於大の方おだいのかた

肖像画

概 要

水野

 ポイント

  • 水野忠政の娘。松平広忠の正室で徳川家康の母である
  • 水野家と松平家が敵対すると広忠と離縁する
  • 家康が独立すると松平家に降り家康を支えた

誕生・死没

  • 誕生:1528年
  • 死没:1602年
  • 享年:74歳

名 前

  • 伝通院(晩年)

親 族

水野忠政
華陽院
兄弟 近守信元於丈の方信近
   忠守於大の方松平広忠の正室)
   妙春尼(石川清兼の生室)、女(水野豊信室) 、近信 、忠勝 、 藤助
   屋鍋(中山勝時室)、女(水野忠守室) 、忠分忠重
 子 徳川家康(松平広忠との子)
  松平康元松平康俊松平定勝
多劫姫 、松姫(松平康長の正室
天桂院(松平家清)の正室

略 歴


1528年 0歳  水野忠政の子として誕生
1541年 13歳  松平広忠に嫁ぐ
1543年 15歳  竹千代(後の徳川家康)を出産
1544年 16歳  松平広忠と離縁
1547年 19歳  知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁
1560年 32歳  桶狭間の合戦
俊勝と3人の息子と共に家康に下る
1576年 48歳  兄・水野信元が謀反の罪により家康に殺害される
夫・久松俊勝が隠退する
水野家滅亡
於大の方が剃髪し伝通院と号す
1602年 74歳  高台院や後陽成天皇に拝謁
死 去

誕 生

1528年、尾張国知多郡の豪族・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に生まれた。
※青山政信の娘で忠政の養女であったという説もある。

松平広忠との婚姻

★ 三河の最大勢力・松平家との政略結婚

父・忠政は居城・緒川城からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方(忠政の正室、於大の方の母)を離縁して清康に嫁がた。
忠政は松平氏とさらなる友好関係を深めるため、1541年に於大の方を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせたという。

★ 竹千代(徳川家康)の誕生

1543年1月31日、於大は広忠との間に長男・竹千代(後の家康)を岡崎城で出産した。
 於大の方はこの際に、竹千代の長寿を祈念するため三河国妙心寺に薬師如来の銅像を奉納したとされている。

松平家との離縁

★ 兄・信元が織田家に従ったため広忠と離縁する

忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、1544年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城(現刈谷市)に返され、椎の木屋敷で暮らしたとされている。

★ 異 説

近年では天文13年当時まだ対立が本格化していない今川氏や織田氏との関係よりも、水野氏と松平氏の関係自体に離縁の理由が求められている。そもそも、於大と広忠の婚姻自体が、広忠の叔父で「名代」として実権を握っていた松平信孝が推進した外交政策に基づくもので、広忠や重臣たちと対立した信孝が追放されたことで、
信孝と関係が深かった水野氏に対する広忠の外交政策が変化したと考えられている。また、信元の正室は広忠と家督を争った松平信定(広忠の大叔父)の娘であったため、信定と敵対関係にあった松平氏に対する信元の外交政策が変化したことも考えられる。

久松俊勝との再婚

1547年、信元の意向のもと於大の方は知多郡阿古居城(坂部城、現・阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁した。
これは、俊勝が元々水野氏の女性を妻に迎えていたが、妻の死後は水野氏と松平氏の間で収まりが定まらなかったため、松平氏との対抗上その関係強化が理由と考えられる。また、於大の方は再婚後も家康と音信を絶えず取り続けていた。

家康の母として

桶狭間の戦い後、独立した家康の許に母として戻る

1560年の桶狭間の戦い後、今川氏から自立し織田氏と同盟した家康は、俊勝と於大の3人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えた。

★ 水野家滅亡

1576年、於大の方の兄・水野信元が謀反を疑った織田信長の命令により、家康に殺され、水野家は一時滅亡した。(後に再興する)
この時、真相を知らずに家康の下へ信元を案内した久松俊勝は隠退してしまう。また家康の下へ行かずに、尾張国の久松家の所領を継いで織田家に仕えていた久松俊勝の子・久松信俊(俊勝の先妻の子で、於大の子ではない)も信長に謀反を疑われて大坂四天王寺で自害し、所領は没収された。
また、於大の方は俊勝の死後、俊勝菩提寺の安楽寺で剃髪して伝通院と号した。

★ 死 去

1602年、家康が滞在した現・京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去した。
遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬された。法名は伝通院殿光岳蓉誉智光。

こぼれ話

★ 子供を秀吉の養子にすることに猛反発

1584年の小牧・長久手の戦い後、子の松平定勝が羽柴秀吉の養子になるという話が浮上したが、強く反対し、家康に断念させた。

★ 豊国神社での謁見

1602年、高台院や後陽成天皇に拝謁し、豊国神社に詣でて徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示したとされている。

★ 自身の役割をよく理解していた於大の方

『松平記』によると、水野忠政は2人の娘のうち、姉・於丈を松平家広に、妹・於大を松平広忠に嫁がせていたが、後を継いだ信元が今川方から織田方に転じた時に家広と広忠はこれに同調せずに信元と縁を切ってそれぞれの妻を実家に送り返すことにした。
ところが、岡崎領と刈谷領の境界に来た時に、於大は付き添ってきた松平家の家臣にここから岡崎城に帰るように命じた。
家臣たちはそれでは広忠の主命に背くことになると述べたが、於大は信元が送ってきた松平の家臣を辱める振舞いに出て両家に遺恨が生じるかもしれないから是非帰るように指示をすると、近くにいた水野家側の領民に於大を載せた輿を託して岡崎城に帰還していった。
その後、姉・於丈を送り届けた松平家広の家臣たちは城内にて信元に討ち取られたと伝えている。

★ 於大まつり

於大の出生地・東浦町は彼女を記念して緒川の地に「於大公園」を整備し、毎年「於大まつり」を催している。