概 要
徳川家臣。徳川四天王筆頭。家康が人質だった頃から仕え教育係も務めたという。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。
ポイント
- 松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として誕生
- 家康の人質時代から仕え教育係も務め家康第一の家臣となる
- 家康の主な戦いには全て参加している
- 信康切腹事件のきっかけをつくる
誕生・死没
- 誕生:1527年
- 死没:1596年
- 享年:70歳
名 前
- 小平次(幼名)
- 小五郎、左衛門尉(通称)
- 一智(号)
所 属
親 族
父 | : | 酒井忠親 |
母 | : | 不明 |
正室 | 松平清康の娘・碓井姫 | |
兄弟 | 酒井忠善、西郷清員の正室 | |
子 | 家次、本多康俊、小笠原信之 | |
: | 松平久恒、忠知、ふう(松平伊昌の正室)、鳳樹院 (牧野康成の正室) | |
本郷頼泰室、曽我尚佑室) | ||
養 女 | 養女(山岡景佐の娘) | |
略 歴
1527年 | 0歳 | 酒井忠親の次男として誕生 |
1549年 | 23歳 | 家康の人質に同行する |
1555年頃 | 30歳頃 | 福谷城に住む |
1556年 | 31歳 | 福谷城に攻めてきた柴田勝家を撃退 |
1560年 | 35歳 | 桶狭間の戦い |
1563年 | 38歳 | 三河一向一揆 |
1564年 | 39歳 | 吉田城攻めの先陣を務める |
1569年 | 44歳 | 武田家との外交を担当する |
1570年 | 45歳 | 姉川の戦い |
1573年 | 48歳 | 三方ヶ原の戦い |
1575年 | 50歳 | 長篠の戦い |
1579年 | 54歳 | 松平信康が自害 |
1582年 | 56歳 | 本能寺の変 |
1584年 | 58歳 | 小牧・長久手の戦い |
1585年 | 59歳 | 石川数正が出奔 |
1586年 | 60歳 | 従四位下・左衛門督に叙位任官 |
1588年 | 62歳 | 長男の家次に家督を譲って隠居する 豊臣秀吉からは京都桜井の屋敷と世話係の女と在京料として1000石を与えられる。 入道して「一智」と号したと一般的に伝わっている。 |
1596年 | 70歳 | 死去 |
酒井家とは
西三河の坂井郷から起こった土豪で松平氏の別流
酒井氏はもともと、大江忠成(大江広元の五男)の子孫を称する海東氏の流れを汲み、三河国碧海郡酒井郷あるいは同国幡豆郡坂井郷の在地領主であった。
14世紀の末頃に酒井忠則は、新田氏の支族、世良田氏の一族を名乗る時宗の僧・徳阿弥(後の松平親氏)を娘婿に迎えたという。その間に生まれた子が酒井広親(庶長子)で、成長した広親は親氏系の酒井氏の始祖となったとされる。
2つの酒井家
酒井氏は下記の5つの家に別れている。
左衛門尉酒井家…忠次の系譜。左衛門尉酒井家は忠次の父から系譜が書かれているがその間の系譜は明確ではない。
雅楽頭酒井家、広親の次男とされる酒井家忠の家系は、代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭家(うたのかみけ)と呼ばれる。酒井雅楽助正親は左衛門尉家の忠次と同じく家康青年期の重臣のひとり。
江戸時代以降の酒井家
酒井氏の大名家は9家を数え、すべて譜代大名(扱いは親藩格)であるが、左沢、大山が改易されたため、明治維新まで残った大名の酒井家は7家だった。明治には7家すべて華族に列し、大泉(庄内)、姫路、小浜の3家は伯爵、敦賀、伊勢崎、加知山(勝山)、松嶺(松山)の4家は子爵を授けられた。
誕生と幼少期
松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として誕生
1527年、忠次は徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河額田郡井田城(愛知県岡崎市井田町城山公園)に生まれる。
元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕えた。
家康第一の家臣
家康の人質時代
1549年、家康が今川義元への人質として駿府に赴く時、竹千代に従う家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行した。
家康の配下として仕え、養育係も務めたといわれている。
東三河の旗頭
1560年5月の桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、1563年の三河一向一揆では、酒井忠尚を始め酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康に従った。
1564年には吉田城攻めで先鋒を務め、守将の小原鎮実を撤退させ、無血開城によって城を落とす戦功を立て、戦後、吉田城主となっている。これにより、忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統制する役割を与えられる(西三河は石川家成)。
武田家の外交官
1569年末に甲斐国の武田信玄は今川氏真の領国駿河への侵攻を行い(駿河侵攻)、徳川氏は当初武田氏と同盟し今川領国の割譲を協定していたが、忠次は武田方との交渉を担当している。
姉川の戦い
の姉川の戦いでは姉川沿いに陣取り、小笠原信興の部隊と共に朝倉軍に突入して火蓋を切った。
武田家の戦い
三方ヶ原の戦い
1573年の三方ヶ原の戦いでは右翼を担い、敵軍の小山田信茂隊と激突し、打ち破っている。
長篠の戦い
長篠の戦いでは分遣隊を率いて武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦からの強襲を敢行、鳶巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に勝頼の叔父・河窪信実等を討ち取り、有海村の武田支軍をも討つ大功を挙げてた。
鳶ヶ巣山砦奇襲の作戦は、軍議で忠次が発案したものであったが、信長からは頭ごなしに罵倒され、忠次の発案は却下された。
しかし、軍議が終わって諸将が退出した後、信長は忠次を密かに呼び出し、情報漏洩の恐れがあったため、わざと却下し、改めて作戦の指揮は忠次に任せ作成を遂行させた命じた。
信康切腹事件
信康切腹事件
1579年、家康の嫡子・松平信康が築山御前(家康の正室、信康の母)と共謀して武田方に内通しているとする書状を徳姫(信康の正室、信長の長女)が忠次を持参役として父・信長に送った。
忠次は織田信長からの詰問を受けたとき、この際、忠次は信康を十分に弁護できず、信康の切腹を防げなかったと言われる。もっとも、この信康切腹の通説に関しては不自然な点や疑問点も多く、信康の切腹は家康の意思であるという説が近年では有力である。
常山紀談での記述
信康の切腹事件は信長に「信康が武田氏と通じて信長を殺そうとしている。この事は忠次がよく知っている」と告げられたことが発端であるとされている。信長は信康の妻徳姫から報告された信康の悪事について忠次に問いただしたが、忠次はこれを認めた。これについては、以前忠次が信康の侍女を側室としたことから、信康の恨みを買っていたとされている。信康の守役平岩親吉は、自分が切腹してなんとか信康の助命を願い出るよう述べたが、家康は忠次がここまで言ってはなかなか聞き入れられないだろうと止めている。後に忠次は目を患って引きこもっていたが、しばらくしてから家康に拝謁し、「年老候ひぬ子を不便にさせ給え(私は年老いました。子供をどうかかわいがってください)」と言上した。家康は「信康生きて有るなら斯許心を労すまじきに、汝も子の不便なることを知りたるが怪しき(信康が生きていればこのような心労もなかったであろうに、お前も子がかわいいということを知っているのは不思議なことだ)」と述べ、忠次は言葉もなく退出したという
晩 年
本能寺の変後
1582年、本能寺の変が勃発すると、家康は信長横死後に空白地帯となった武田遺領の甲斐・信濃の掌握をはかり(天正壬午の乱)、忠次を信濃へ派遣して信濃国衆の懐柔を図る。
忠次は奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻するが、諏訪頼忠や小笠原貞慶らの離反により失敗する。1584年の小牧・長久手の戦いでは羽黒の戦いで森長可を敗走させるなど、戦功をあげた。
家康第一の重臣
1585年に同じく家康の宿老であった石川数正が出奔してからは家康第一の重臣とされ、1586年には、家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位任官されている。
しかし、1588年には長男の家次に家督を譲って隠居する。隠居の要因は加齢もさることながら、眼病を患い、殆ど目が見えなかったからだともいわれる。
死 去
隠居してからの忠次、豊臣秀吉からは与えられた京都桜井の屋敷に住んでおりこの頃、入道して「一智」と号したと一般的に伝わっている。 そして1596年10月28日、京都桜井屋敷で死去した。享年70。墓所は知恩院の塔頭・先求院。墓は知恩院山腹の墓地内にある。
逸 話
正月の門松の由来
1573年正月、武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな(松平は枯れて武田は類ないようになる将来だ)」と詠んだ句が送られてきた。
家康や徳川家臣団は激怒したが、忠次はその句の要所に濁点を入れ替えて「松枯れで竹だくびなき明日かな(松平は枯れず武田は首がない将来だ)」と読み返したという。このことから、正月には門松の竹を斜めに切り落とすのが習慣になったという。
愛 槍
忠次の愛槍は「甕通槍」といい、甕もろとも突き抜けて敵を倒したという逸話がある。
猪切り
酒井忠次の愛刀で七男の松平甚三郎(庄内藩主席家老)の家系に伝わる猪切(いのししぎり)は、村正の高弟である正真の作である(銘は「正真」の二字)[2]。若かりし頃の家康が伴を連れて狩りに出た時、忠次がこの千子正真で猪を斬ったので、茎に「猪切」の金象嵌を入れたのだという
海老すくいの踊り
長篠の戦いを前にし、弱気な家臣達を前に忠次は突然得意の「海老すくい」という踊りを踊り始めた、重臣であるにもかかわらず配下達のの前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。
この踊りは1586年、家康が北条氏政と同盟を結ぶために伊豆三島に赴いた際の酒宴でも披露している。
徳川四天王としての活躍
武田氏滅亡後に家康は、井伊直政を取り立てるために大半の武田家臣を付そうとした。忠次は直政に甲州侍を付ければなおますます励むであろうと賛成した。しかし榊原康政は激怒し、直政と刺し違えるとまで言い出した。これを聞いた忠次は「直政に甲州侍を付したのは主君である。軽率な行動をすれば、その方の一門を串刺しにする」と康政を叱りつけた。康政はこの言葉に服したという