「尾張の虎」と称され尾張統一を目指した猛将

織田 信秀おだ のぶひで

織田信秀

織田信秀

  ポイント

  • 織田信長の父
  • 今川・斉藤家と争いながら尾張統一を目指す
  • 織田家の力を主家を凌ぐ勢力にする

誕生・死没

  • 誕生:1511年
  • 死没:1552年
  • 享年:42歳

同年代の人物

名 前

  • 三郎(通称)
  • 器用の仁(渾名)
  • 尾張の虎(渾名)

所 属

官職・役職

  • 官位:従五位下、弾正忠、備後守、三河守
    贈従三位

親 族

略 歴

1511年 1歳  織田信定の長男として誕生
1526年 16歳  家督を継ぐ
1532年 22歳  主家の織田達勝と争う
1534年 24歳  織田信長が誕生する
1538年 28歳  今川氏の那古野城を奪いとる
1539年 29歳  古渡城を築城し居城とする
1540年 30歳  安祥城を攻略する
1542年 32歳  第1次小豆坂の戦いで勝利する
1543年 33歳  朝廷に4000貫献上する
1544年 34歳  稲葉山城下まで攻め込むが反撃を受けて大敗する
1547年 37歳  松平家の岡崎城を攻め落とす
1548年 38歳  末森城を築城し居城とする
1549年 39歳  斉藤氏と和睦し信長と濃姫が婚姻する。
安祥城が今川に奪われる。
竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換
1550年 40歳  知多郡の水野家が今川家に降伏する
1552年 42歳  末森城で死没する

概 要

尾張守護代の家臣として生まれる。「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、津島の港町を基盤に豊かな経済力を築き織田家を主家を凌ぐ勢力へと成長させる。尾張統一を目指して近隣の今川家、斎藤家らと抗争を続けたが、志半ばにして流行病にかかり、急死した。織田信長の父である。

誕生と家督相続

1511年、尾張国南西部海東郡・中島郡に跨る勝幡城主(愛知県愛西市・稲沢市)で、清洲三奉行(守護代・清洲織田大和守家の実務担当)の一人の織田信定の長男として生まれる。

信秀の父・信定は1521〜8年に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として尾張第一に繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作った。
信秀は父・信定の生前である1526年から1527年6月の間に家督を譲られて当主となったとされている。
家督相続してまもなく、1532年、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。
その後、この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、1533年、京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道して勝幡城で蹴鞠会を開催し、約100人の見物衆も含め多くが集まり、その後、清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した。

勢力拡大

 1538年頃、守護代より独立するため、信秀は、今川氏豊の居城の那古野城(名古屋市中区)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した。

 その後も勢力の拡大にともなって古渡城(名古屋市中区)を築き居城とした。古渡は熱田神宮の門前町として栄ておりこれを抑える目的での築城であった。ちなみに那古野城には信長を城主として入れ置いた。
 その後も、末森城を築城し、ここに拠点を移している。

朝廷対策

経済的にも勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。
さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられた。
さらに1543年には、朝廷に禁裏修理料(伊勢神宮の修理費用・臨時課税)として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示していた。

朝廷対策

経済的にも勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下に叙位され、備後守に任官された。
さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した[9]。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられた。
さらに1543年には、朝廷に禁裏修理料(伊勢神宮の修理費用・臨時課税)として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示していた。

周辺諸侯との関係

三河・松平清康が家臣の阿部正豊に殺害されると、信秀はその隙を突いて、信秀は三河に侵攻し、1540年には安祥城を攻略し、支配下に置き長男(庶子)の織田信広を置いた。
 松平氏は今川義元の支援を受けたが、1542年の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持した。

1542年、美濃の守護・土岐頼芸と子の頼次が斎藤道三によって尾張国へ追放されると、信秀は頼芸を支援して、越前国の朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った(1549年に再度道三側に取り戻されている)。
 1544年に道三の居城・稲葉山城の城下まで攻め込むが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。

 1547年に松平広忠の岡崎城を攻め落とし降伏させると、広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質とする。しかし、1548年に斎藤道三が松平広忠に働きかけて、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が挙兵しすると、第2次小豆坂の戦いが勃発し今川方の太原雪斎に敗北。
次第に今川・斎藤に押され始めるようになる。そのため、この年斎藤氏と和睦、信長と濃姫との婚姻が行われた。

勢力の衰退

斉藤家との和睦が成立した翌年、今川家が、織田方の西三河支配の要である安祥城に太原雪斎を将とする約1万の軍勢を送った。
城主であった庶子・信広は奮戦したが、今川家の2度の攻撃による末、安祥城は陥落し、織田方は西三河から撤退し、さらに信広が今川方に捕縛された。(後に松平広忠の嫡男竹千代との間で人質交換が行われる。)
さらに、1550年8月今川の軍勢により、知多郡の水野家が降伏、愛知郡の鳴海城の山口教継が今川方となり織田家の勢力が衰退していく。

最 期

1552年3月3日、末森城で死去した。享年42。
家督は嫡男の信長が継いだ。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった。

人物

那古野城の不意打ち

信秀は城主・今川氏豊に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。
その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略した。

転勤族

居城を勝幡城、那古野城、古渡城、末森城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、このように拠点を転々とするのは、戦国大名としてはめずらしいことであった。

子だくさん

40代前半で死去するまでに正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけた

信長に受け継がれたもの

籠城せず必ず打って出る戦闘方法、兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略、朝廷重視の政略、経済流通