東条松平家の祖。松平長親の四男。兄・信定と対立した

松平 義春まつだいら よしはる

概 要

松平長親の四男。東条城の吉良家の跡目を継いで東条松平家を確立した。
その後は長兄・信忠(家康の曾祖父)に加担し兄・信定と対立した。

 ポイント

  • 松平長親の四男。信忠(家康の曾祖父)の弟
  • 東条城主の吉良家の跡を継ぎ、東条松平家を確立
  • 長兄・信忠に加担し兄・信定と対立する。

誕生・死没

  • 誕生:?年
  • 死没:?年
  • 享年:?歳

名 前

  • 甚太郎、勘九朗
  • 右京亮

所 属

親 族

松平長親
兄弟 信忠親盛信定
義春利長
忠吉 、忠茂本多広孝の正室

出生と東条松平家の確立

☆ 松平長親の四男として誕生する

義春の出生年は不明だが、松平家宗家5代当主・松平長親の4男として誕生する。
長男には徳川家康の曾祖父にあたる松平信忠がいる。

☆ 東条城主・吉良家の跡目を継ぎ東条松平家を確立

 義春は東条松平家とされるが、東条松平家の元は東条城主・吉良家のこと。その吉良家5代目当主・吉良義藤が応仁の乱の際に、同族である吉良義真(西条吉良家)に敗れ出奔したため義春が跡目(後見人とも)を継いで東条松平家と名乗った。
ちなみに義藤には嫡男・吉良持清がいたが幼少だっため、義春が継いだ。
しかし、この事実を伝える史料は少なく信憑性にかけるといわれている。

兄・信定との対立

★ 長男・信忠と次男・信定が対立すると信忠を支援し信定と対立する

「三河物語」等によれば、松平宗家の家督を巡って長男・信忠と次男・信定が争うと、義春は信忠を支援し信定と対立した。
信忠引退後もその嫡子・清康から8代広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。
また、「三河物語」ではさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。 同物語では、内膳殿(信定)が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。

義春の死因

★ 戦死か?病死か?

通説では義春の死は1556年2月20日三河国額田郡形野村(現・岡崎市桜形町)の日近城の奥平貞直(久兵衛尉)を攻めた際、戦死した(城兵の放った矢(銃弾とも)にあたり重傷を負い家臣に背負われて退却の途中、近接地の大林で絶命した)とされている。
しかしこれは誤りで実際は嫡子・忠茂の事だったと現在では確定されている。
そのため、義春の死因については三河物語で記述されている「病死」が信憑性が高い。
なお義春・忠茂父子は共に通称を「甚太郎」と称していたとされ、忠茂が若年で戦死したため義春一代の事績として誤伝されたと思われる。