家康を輩出した三河の小豪族

徳川(松平)とくがわ(まつだいら)


丸に三つ葉葵

丸に三つ葉葵

家系図

年 表

 1390年頃

松平氏の祖、松平親氏が松平家の婿養子となる

 1404年

3代目当主・松平信光が誕生

 1431年

4代目当主・松平親忠が誕生

 1458年

関口氏(今川関口家)の岩略寺城を攻略
長沢城に本拠を移す

 1461年

保久城を攻略

 1465年

三河守護・細川成之の要請で額田郡一揆を平定

 1473年

5代目当主・長親誕生

 1488年

松平信光が死没
親忠が家督を継ぐ

 1490年

松平信忠が誕生

 1493年

第二次井田野合戦で、上野城主阿部氏、寺部城主鈴木氏、挙母城主中条氏、伊保城主三宅氏、八草城主那須氏らを破る

 1496年

親忠、三男・長親に家督を譲り、隠居

 1501年

親忠死没

 1503年

長親の隠居により信忠が家督を継ぐ

 1506年

今川氏親の三河侵攻が始まる

 1508年

永正三河の乱が勃発
今川軍を撃退するが松平家宗家が滅亡

 1511年

松平清康が誕生

 1523年

信忠が隠居し嫡男・清康が家督を継ぐ

 1524年

清康、岡崎松平家の山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる

 1525年

清康、足助城の鈴木重政を降伏させる

 1526年

8代当主、松平広忠が誕生

 1529年

清康、尾島城、東三河の吉田城を攻略し東三河の国衆を従属させる

 1530年

清康、尾張へ侵攻し岩崎城を攻略

 1535年

清康、織田信光の守山城を攻める
清康が家臣に暗殺される
広忠が家督を継ぐ

 1543年

松平竹千代(後の家康)が誕生

 1547年

松平竹千代が織田家へ人質となる

 1548年

小豆坂の戦いで織田家と戦う

 1549年

織田信広と松平竹千代の人質交換
松平広忠が死没

 1560年

桶狭間の戦いが勃発
元信(家康)が岡崎城に入城

 1561年

今川家の牛久保城を攻略
織田家と同盟

 1566年

三河を統一
徳川姓を名乗る

 1566年

三河を統一

 1568年

武田家が駿河の今川領に侵攻
家康が曳馬城を攻め落とし遠江へ侵攻

 1569年

遠江国を支配下に置く
今川家の滅亡

 1570年

浜松城を築城し本拠地とする

 1572年

武田家が遠江・三河国へ侵攻

 1573年

三方ヶ原の戦いで武田家に敗れる
武田信玄が死没し武田家が徳川家から撤退

 1575年

長篠の戦いで武田家に勝利

 1579年

北条家と同盟
徳川秀忠誕生

 1582年

武田領へ侵攻を開始
本能寺の変

 1583年

豊臣秀吉が柴田勝家を滅ぼす

 1584年

小牧長久手の戦い
豊臣家と和睦する

 1585年

第一次上田合戦

 1586年

豊臣家に巨従する

 1587年

居城を駿府城に移す

 1590年

小田原征伐が勃発
北条氏の旧領の関八州に移封された

 1590年

小田原征伐が勃発
北条氏の旧領の関八州に移封された

 1591年

奥州征伐に参陣

 1598年

豊臣秀吉が死没

 1600年

関が原合戦

 1603年

家康が征夷大将軍に任命
江戸幕府の創立

 1605年

家康が将軍職を辞職し秀忠が継ぐ

 1614年

大阪冬の陣

 1615年

大阪夏の陣
家康が死没

家 紋

丸に三つ葉葵

丸に三つ葉葵

★ 丸に三つ葉葵とは…
葵の葉を3つ描いた図案の家紋。葵紋は賀茂神社(賀茂氏の氏神を祀る神社)の神紋になっている。その賀茂氏との繋がりが深い三河国の武士団は、葵紋を家紋としてきた。

出 自

★ 清和源氏である新田氏の支流の流れ得川氏を遠祖とする

松平氏の遠祖は清和源氏の新田氏の支流、得川氏といわれている。
この得川家は源義家の孫である源義重の子・義季を先祖とし、義季が父・義重から上野国新田郡新田荘得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を譲られこれを領し、「得川(えとく)」と名乗ったといわれている。
ちなみに家康はこの「得川」という字を創作して「徳川」となのったとされている。

松平家へ

★ 得川親氏が三河国領主・松平信重の娘婿となって松平姓を継ぐ

室町時代初期、得川氏の当主であった親氏は関東で鎌倉公方の軍勢に敗れたのを機に出家し、各地を放浪した。
その後、親氏は三河国の領主・松平信重にその才能を評価され松平家の婿養子となり、親氏は還俗して「松平親氏」と名乗ったという。

室町時代

★ 伊勢氏の家臣として活躍

室町時代になると3代当主・松平信光は、室町幕府の政所執事の伊勢氏の家臣となり、額田郡岩津城を本拠地とし西三河の平野部に勢力を拡大し、「十八松平」と称される多数の分家を各地に創設した。

★ 三河国の新守護・細川氏に協力しさらに勢力を拡大する

三河守護で山名氏の与党でもあった一色氏の勢力を恐れた室町幕府6代将軍・足利義教は、三河守護一色義貫を暗殺し、暗殺に功のあった管領細川氏の一族細川持常を三河守護に任じた。これにより三河国内は内戦状態となるが、信光は細川家の要請により額田郡一揆を平定するなど活躍し、さらに東三河の戸田宗光に娘を嫁がせる行った
1467年に「応仁の乱」が勃発すると信光は東軍に属して三河守護・細川成之と共に、三河復権を狙う一色氏を破り。西軍方であるの畠山氏の安祥城(愛知県安城市)を奪った。

戦国初期

★ 西三河に勢力を広げ松平氏の基礎が確立する

戦国期に入ると信光は岡崎城主・西郷頼嗣の娘婿とし、岡崎城を勢力下におき、さらに安祥城も勢力下におき西三河に勢力を広げ、竹谷松平家、安祥松平家、形原松平家、岡崎松平家(大草松平家)、五井松平家(深溝松平家)、能見松平家、丸根松平家、牧内松平家、長沢松平家といった分家を各地に置き松平氏の基礎を築きあげた。

★ 宗家・岩津松平家の滅亡と安城松平家の台頭

松平家の親族である、安祥城主・松平親忠(後に松平宗家6代目当主)は、中条氏らを破り武勇を上げたほか、松平氏菩提寺である大樹寺を建立した。また、大恩寺を中興し、同寺で学んだ第四子の存牛は浄土宗総本山知恩院住持を務め皇室との関係を深めた。
親忠の嫡子・長親は、三河に侵攻してきた北条早雲を破ったが、これらの混乱の松平家の宗家である岩津松平家は滅び、代わって安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化するとともに戦国大名へと発展していった。

戦国中期

★ 松平清康の躍進

松平宗家が滅亡し安祥松平家が台等するが、宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代に数えられる信忠は一族を抑えられず、1523年に父長親の命で若くして隠居させられた。
代わって当主となった清康は岡崎松平家の山中城を攻略。明大寺城、岡崎城を取得し、本拠を岡崎に移した。
しかし、加茂郡・渥美郡の諸豪族を攻めて北三河・東三河まで服属させ三河の統一を進める最中、西に転戦して尾張へと進出したところで家臣に刺殺されてしまった。

★ 今川家への従属

清康の死後、嫡男・広忠(家康の父)は10歳の幼さで家督を継いだが、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。しかし、この混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で小豆坂の戦いが行われた。しかし、父清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして死んだ。

★ 家康の誕生と今川家からの独立

広忠の嫡子で9代目当主・竹千代(元康後の家康)は今川氏の人質として駿府に送られ、松平氏は完全に今川家に従属された形となっていた。
しかし、1560年の「桶狭間の戦い」で今川義元が敗死すると、元康は大樹寺住職と相談し生誕地の岡崎城に戻り今川家からの今川氏から独立果たした。

戦国後期

★ 徳川家の誕生

今川家からの独立を果たした元康は西三河にある今川方の拠点を次々とし、さらには尾張の織田家と同盟を結んだ。(清洲同盟)
その後元康は名を「松平家康」と改め、三河を統一するとに勅許を得て、先祖義季以来の「得川」の名字を復活させると、さらに嘉字である徳川氏に改めた。ただし、徳川の名乗りは家康一家のみが名乗り、松平諸家の姓は松平に留めた。家康はこれにより自身の家系を松平一族中で別格の存在として内外に認知させることに成功し、「十八松平」諸家は徳川氏の親族ではなく家臣の格である「譜代」に位置付けられた。

★ 今川領への侵攻

武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始すると、家康は武田氏と同盟を結び、13日、遠江国の今川領へ侵攻して曳馬城を攻め落とし、さらに駿府城から本拠を移した今川氏真の掛川城を攻撃し、今川家を滅亡させ、遠江国を支配下に置いた。
その後、拠点を岡崎から遠江国の曳馬に移ると、ここを浜松と改名し、浜松城を築いてこれを本城とした。

★ 武田家との戦い

遠江を支配下に置いた家康は、武田家と攻防を繰り広げることになる。信玄の在命中は武田の優勢に進み、1572年には武田氏が徳川領である遠江国・三河国への侵攻(西上作戦)を開始し徳川家は「三方ヶ原の戦い」などで敗戦が続いた。

しかし、信玄が死去し、「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍が武田家に勝利すると形勢は逆転し、本能寺の変前には武田領へ本格的侵攻を開始した。

本能寺の変後

★ 北条家と対立するが和睦し5ヶ国を領有する大大名へ

本能寺の変が勃発すると家康は武田家の旧領を巡って北条家と対立することとなるが戦意を喪失した北条軍が和睦を求め徳川家と北条家の同盟が成立したと、和睦の条件とし甲斐・信濃(北信濃四郡は上杉領)・駿河・遠江・三河の5ヶ国を領有する大大名へとのし上がった。

★ 豊臣家との対立からその臣下へ

信長死後の羽柴秀吉の影響力が強大化するなか、家康は信長の次男・信雄を擁し、信長の嫡孫・三法師(織田信忠の子)を擁する秀吉と対立するようになった。
その後、秀吉と家康・信雄は和睦し、講和条件として、家康の次男・於義丸(結城秀康)を秀吉の養子とし、家康は秀吉に巨従した。秀吉臣下の「五大老」として活躍した

秀吉の死後

★ 関が原合戦で石田三成に勝利

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭とされた。
しかし、豊臣家内部では臣家の内部では石田三成を中心とする官僚「文治派」と、三成を嫌う将軍「武断派」の内部対立が発生。次第に武断派は家康を頼り「家康派」と「三成派」に分かれていくことになった。
両者は美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられ、この戦いは家康の勝利に終わり、家康は天下人としての立場を確立した。

江戸幕府

★ 関が原合戦で石田三成に勝利し、江戸幕府を開く

豊臣秀吉の死後、内大臣の家康が朝廷の官位で最高位になり、また秀吉から「秀頼が成人するまで政事を家康に託す」という遺言を受けていたため五大老筆頭とされた。
しかし、豊臣家内部では臣家の内部では石田三成を中心とする官僚「文治派」と、三成を嫌う将軍「武断派」の内部対立が発生。次第に武断派は家康を頼り「家康派」と「三成派」に分かれていくことになった。
両者は美濃国関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられ、この戦いは家康の勝利に終わり、家康は天下人としての立場を確立し、江戸幕府を開いた。

武 将 (名前クリックで詳細)

― 安祥松平家(宗家) ―

 松平親忠
(1431?-1501)

松平信光の三男。安祥松平家初代で松平家4代当主。勢力を拡大するほか松平氏菩提寺の大樹寺を創建するなど活躍した

 松平長親
(1473-1544)

松平親忠の三男。松平家5代当主。連歌などの教養に長けたほか今川軍の攻撃を何度も耐え松平氏の基礎を築いた。

 松平信忠
(1490-1531)

松平長親の子。松平家6代当主。父の隠居により家督を継ぐが、器量が乏しく家臣の離反が相次いだため、子・清康に家督を譲り隠居した。

 松平清康
(1511-1535)

松平家7代当主。信忠の嫡男。13歳で家督を継ぐと積極的な軍事行動で三河を平定し、尾張の織田信秀との戦いの最中、家臣・阿部弥七郎に殺された。(守山崩れ)

 松平広忠
(1526-1519)

松平家8代当主。清康の子で徳川家康の父。今川義元の庇護を受けて領国経営を進め、小豆坂の戦いなど生涯を織田信秀と争う。しかし、反松平派の刺客・岩松八弥に殺害された。

 徳川家康
(1543-1616)

松平家9代当主。広忠の子。幼少を織田家、今川家の人質として過ごす。桶狭間の戦いの後に今川家から独立し織田家と同盟を結ぶ。本能寺の変後に豊臣秀吉に従属し勢力を伸ばすと関が原の合戦で勝利し征夷大将軍となり江戸幕府を創立する。

 徳川秀忠
(1543-1616)

江戸幕府2代目征夷大将軍。徳川家康の三男。凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となり武家諸法度を整えるなど、幕府が始まろうとする時期を支えた。

― 岡崎(大草)松平家 ―

三河国額田郡大草郷(現在の愛知県額田郡幸田町)出身の松平氏。岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする、十四松平・十八松平の一つ。岡崎城を居城としたため、初めは岡崎松平家と称しが3代・松平昌安の時に松平宗家・松平清康に岡崎城を乗っ取られ、やむなく大草の地に退去する。
4代・松平昌久は三河一向一揆で一揆側に付いた。このため大草松平家は没落するも、7代・松平康安の時、旗本(6千石)となった。しかし9代・松平正永の代で無嗣のため絶家した。

 松平昌安
(?-1525)

大草松平家3代当主。家初代当主・松平光重の子。兄・親貞の後を継いで同家の家督を相続した。松平清康による攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡し、娘の於波留を清康に嫁がせ、自らは大草に隠遁した。

 松平昌久
(?-1525)

大草松平家の4代目当主。松平昌安の子。松平宗家の清康・広忠・元康(家康)の三代に仕えた。三河一向一揆が起きると反家康方に加わって東条城に籠城した。その後、東条城が落ちると、昌久は行方を晦ませたという。

― 福釜松平家 ―

 松平親盛
(1503-1530)

松平長親の次男。福釜松平家の祖。松平宗家に忠誠を尽くし『三河物語』では「戦については凄腕で他に越す者がいない」と評された人物

― 桜井松平家 ―

 松平信定
(?-1538)

松平長親の三男。松平宗家の家督を巡り、長兄の信忠との対立に始まり、清康・広忠と宗家3代に亘り反意を示したが敗れた

 松平清定
(?-1543)

松平信定の長男。桜井松平家2代目。父と共に吉田城攻めや品野城攻めなどに従軍し戦功を挙げた

 松平家次
(?-1563)

松平清定の長男。桜井松平家3代目。三河一向一揆に加担し徳川家康を苦しめる

 松平忠正
(1543-1577)

松平家次の長男。桜井松平家4代目で徳川家家臣。当初は父と共に徳川家康と争うが三河一向一揆で敗れると家康に仕えた。長篠の戦いで活躍し信長から賞賛を得た。

 松平家広
(1577-1601)

松平忠正の長男。桜井松平家6代目で徳川家家臣。叔父・忠吉の死後、5歳の若さで桜井松平家の家督を継ぐ。小牧の戦いでは敵兵を多く討ち取る功績を挙げる。家康の関東入封に伴って武蔵国松山城を与えられ1万石を領した。

 松平忠吉
(1559-1582)

松平家次の次男。桜井松平家5代目で徳川家家臣。兄・忠正が早死にしたため桜井松平家の家督を継ぐ。家康の高天神城攻めで戦功を挙げ尾張国品野で2000石の地を得た。

― 東条松平家 ―

 松平義春
(?-?)

松平長親の四男。東条松平家の祖。長兄・信忠(家康の曾祖父)を支援し兄・信定と対立した。

 松平忠茂
(?-1556年)

松平東条松平家2代目当主。松平義春の次男。織田家に三河した兄を追放し、東条家の家督を継ぐ

 松平家忠
(1556-1581年)

東条松平家3代目。家康に忠義を尽くし各地の戦いに参陣する。病弱だったため若死にする

 松平忠吉
(1580-1607年)

東条松平家4代目。尾張清州藩主。家康の四男で徳川秀忠の同母弟。東条松平家第の松平家忠が病死すると、その家督を継いで東条松平家を継ぐ

― 藤井松平家 ―

 松平利長
(???-1560年)

初代藤井松平家。松平長親の五男。父・松平長親から藤井の地を与えられ、藤井松平家を名乗り、松平宗家に忠義を尽くす。

 松平信一
(???-1560年)

藤井松平家2代目当主。藤井松平家始祖・松平利長の長男で、松平清康(家康の祖父)の従兄弟になる。
家康のもと各地の戦いに従軍し、戦功をあげ、家康や信長から賞賛された。

 松平信吉
(1580-1620年)

徳川家臣。桜井松平家当主・松平忠吉の子。徳川家康の甥。子供に恵まれなかった松平信一の養子となり藤井松平家の家督を継ぐ。
関ケ原合戦後には土浦藩主となり水戸街道を城下に引き入れるなど積極的な領内整備を行った。

― 家康の子 ―

 松平信康
(1559-1579)

徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、将来を期待されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父・家康の命により自害した。

― 家康の家臣 ―

 大久保忠隣
(1553-1628)

徳川家臣。大久保忠世の嫡男。姉川、長久手の戦いで功をあげ、秀忠付き老臣となる。秀忠の将軍就任後は武功派最大の実力者となり初代小田原藩主となるが、政敵・本多正信の策謀により改易された。

 酒井忠次
(1527-1596)

徳川家臣。徳川四天王筆頭。家康が人質だった頃から仕え教育係も務めたという。家康成人後は東三河衆を率いて各地を転戦し活躍。その才覚は織田信長や豊臣秀吉にも称賛された。

 酒井家次
(1559-1579)

徳川家臣。酒井忠次の嫡男。酒井佐衛門尉家第6代当主。主君・家康の偏諱を受ける。家康の関東入国の際に臼井城主となった。大坂夏の陣の後、越後高田10万石を領した。

 西郷正勝
(?-1562)

三河国の有力豪族。当初は今川家臣であったが、桶狭間の戦いの後に家康の調略を受けて徳川家に転属する。三河国の東に五本松城を築城して三河西郷氏の本城とするが。今川軍に攻められて戦死する。

 西郷義勝
(?-1571)

三河国の有力豪族。西郷元正の子で西郷正勝の孫。祖父と父の戦死により西郷の家督を継ぐが武田家の三河侵攻に敗れ戦死する。

 西郷正友
(?-1571)

三河国の有力豪族。西郷元正の子で西郷正勝の孫。兄・義勝が戦死したことにより西郷の家督を継ぐかと思われたが家康に認められず、井伊直政の臣下として活躍する。

 西郷清員
(1533-1595)

西郷正勝の子。桶狭間の戦い後松平(徳川)家に転属するが、今川軍に攻められ父が戦死すると菅沼氏を頼り落ち延びる。以後は家康の家臣として武田家との戦いで活躍する。

 西郷家員
(1556-1597)

西郷清員の子。従兄弟である西郷義勝の戦死により西郷の家督を継ぐ。奥州従軍に参陣するなどして家康臣下として活躍する。母は酒井忠次の妹。

 鳥居忠吉
(?-1572)

鳥居元忠の父。松平清康、広忠、徳川家康の3代に仕え、その忠誠心は「三河武士」として名声を高めた。

 鳥居忠宗
(?-1547)

鳥居忠吉の長男で鳥居元忠の兄。松平広忠に仕えるが同族の松平信孝との戦い(渡河内の戦い)で戦死する。

 鳥居元忠
(1539-1600)

鳥居忠吉の三男。家康の幼少のときから仕えた忠臣。家康に従い各地の戦いに従軍し武功を挙げた。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城し、13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。

 鳥居忠政
(1566-1628)

鳥居元忠の次男。父が伏見城で戦死した後に家督を相続する。関ヶ原合戦・大坂夏の陣では江戸城留守居番を勤めた。最上氏が改易されると東北諸大名の監視として出羽最上二十二万石に移封さらた。

 鳥居成次
(1570-1631)

鳥居元忠の三男。幼少時より父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い、大坂の陣に従軍し戦功を挙げた。
徳川幕府創立後には徳川秀忠の次男・忠長に仕え附家老となる。

 永井直勝
(1570-1631)

徳川家家臣、旗本で下総古河藩初代藩主。小牧長久手の戦いで池田恒興を討つ大功をあげる。その後は上野小幡藩、常陸笠間藩を経たのち、下総古河を与えられた。