概 要
松平家7代当主。松平信忠の嫡男で徳川家康の祖父。13歳で家督を継ぐと積極的な軍事行動で武力により三河を平定し、尾張の織田信秀との戦いの最中、家臣・阿部弥七郎に殺された。(守山崩れ)
ポイント
- 松平信忠の子で松平家7代当主。徳川家康の祖父
- 武力により西三河を平定する
- 織田家との戦いの中、家臣に暗殺される
誕生・死没
- 誕生:1511年
- 死没:1535年
- 享年:25歳
同い年の武将
名 前
- 竹千代(幼名)
- 清孝(初名)
所 属
親 族
父 | : | 松平信忠 |
母 | : | 大河内満成の娘 |
正室 | : | 於波留(春姫)(松平昌安(大草松平家)の娘) |
継室 | : | 継室:華陽院? |
兄弟 | : | 清康 、信孝 、 康孝 |
久※徳川家康の乳母 (随念院・鈴木重直室) | ||
東姫(大浜道場室) 、 矢作殿(島田某室) | ||
瀬戸之大房(吉良持広の正室) | ||
子 | : | 広忠 、信康 、俊継尼(吉良義安室) |
碓井姫(松平政忠室→酒井忠次室) | ||
成誉 、 瀬戸之大房(吉良持広室) | ||
養女 | : | 久(松平乗勝室→鈴木重直室) |
略 歴
1511年 | 0歳 | 松平信忠の嫡男として誕生 |
1523年 | 12歳 | 父・信忠が隠居し家督を継ぐ |
1525年 | 14歳 | 足助城の鈴木重政を攻めてこれを降伏させる |
1526年 | 15歳 | 岡崎松平家の山中城を落城させる |
1529年 | 18歳 | 尾島城を攻め獲る 東三河に進出 |
1530年 | 19歳 | 尾張国へ出兵し岩崎城、品野城を攻め落とす。 |
1535年 | 25歳 | 織田信秀の守山城を攻める 家臣の阿部正豊に殺される |
家督相続
☆ 力量不足の父・信忠に代わり松平家の家督を継承
1511年、安城松平家6代当主・松平信忠の嫡男として生まれる。
1523年に隠居中であった祖父・長親や一門衆が力量不足であった父・信忠を隠居させて、その子である清康に家督を継承させた。
☆ 「清康」の由来
「清康」という名前は、三河吉良氏の吉良持清の偏諱を受けたものとされている。
三河国掌握
★ 西三河の岡崎松平家を滅ぼし拠点を岡崎城に移す
家督を継いだ清康は西三河に侵攻を開始した。
1525年に足助城の鈴木重政、1526年には岡崎松平家の山中城を攻撃して松平昌安を屈服させた。
清康は信貞の居城であった岡崎城は破棄し、現在地の龍頭山に城を移転し、岡崎に松平氏の拠点を移したここを岡崎城とした。
★ 東三河侵攻
1529年、西三河を掌握した清康は東三河にも進出して三河牧野氏の今橋城(後の吉田城)を攻め落とした。勢いにのる清康は更に吉田城の南方・渥美郡田原に進軍。宝飯郡牛久保の牧野氏等の東三河国人衆を従属させた。ただし三河の東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏だけが服属を拒んだためこれを包囲し攻め落とした。
森山崩れ
★ 尾張侵攻
1530年頃には尾張国へ出兵するようになる、岩崎城を落とし岩崎郷や、品野城を落とし品野を奪った。
さらに勢いに乗った清康はそして勢いに乗った清康は、斎藤道三との対立で苦戦する織田家の間隙をついて、8千名余りと称する大軍で尾張に侵攻した。
★ 森山崩れ
1535年、清康は尾張に侵入し織田信秀の弟の信光の守る守山城を攻めた。この守山の陣の最中、清康は大手門付近で突如、家臣の阿部正豊(弥七郎)に両断され即死した。これを「森山崩れ(守山崩れとも)」という。享年25歳であった。
一説によると阿部正豊は織田家に内通していたとされている。
人物・逸話
★ 清康の祠
清康の遺骸を岡崎に運ぶ途中、腐敗が酷くなったために仮に祭った墓が、西尾市 長縄町の観音寺(浄土宗西山深草派) 近くの畑地にある。後に大樹寺に移された。その跡地には、現在も清康の祠として残っている。
★ 徳川家に仇なす刀
正豊が清康殺害に用いた刀が「千子村正」と伝えられている。「村正」が徳川家に仇なす妖刀であり、家康が村正を嫌ったという伝説の一部として語られることがあるが、実際には家康の生前にはそのような認識はされていなかったと見られている。