概 要
松平長親の三男。桜井村(現在の愛知県安城市桜井)を拠点とし、桜井松平家初代となった。松平家宗家の家督を巡り、兄・信忠とや甥である清康・広忠と宗家3代と争った。
ポイント
- 松平長親の三男。桜井松平家の祖
- 松平家の家督を巡って、宗家3代にわたり争う
誕生・死没
- 誕生:???年
- 死没:1538年
- 享年:?歳
名 前
- 与一(與一)(幼名)
- 内膳正(通称)
官 位・役 職
- 官位: 内膳正
所 属
略 歴
1523年 | ?歳 | 甥・清康に仕える |
1526年 | ?歳 | 織田信長と縁を結ぶ |
1529年 | ?歳 | 居城・品野城(瀬戸市)を落として居城とする |
1533年 | ?歳 | 松平清康が陣中にて急死する(守山崩れ) |
1537年 | ?歳 | 松平広忠に服従 |
桜井松平家の誕生
☆ 叔父・松平親房に婿養子にだされ桜井松平家となる
15世紀の末頃、松平宗家の松平長親の三男として誕生した。(※二男とする説もあるという)。
松平家の家督を継いだ兄・信忠は一族・家臣からの人望に乏しく、また大将としての器量もなかったため、家臣達からは三男・信定の家督継承を望む声が多かった。また、信定は父・長親からの期待も受けたともいわれる。
しかし、信定は叔父・松平親房(親忠の四男、入道宗安)の婿養子に出され、松平家の家督は信忠の子・清康が継いだ。
宗家跡目の候補から外された信定は、叔父の所領・三河国碧海郡桜井(安城市桜井)に桜井城を築いて居城とし、桜井松平家の祖となった。
甥に仕えながら、宗家跡目を狙う
☆ 甥・清康に仕えるも敵対していた織田と縁を結ぶ
甥・清康に仕えることになった信定だったが、宗家に対して従順といえる姿勢ではなかった。156年には松平家と敵対していた尾張の織田氏と縁を結んだ(嫡男・清定の室に織田信秀妹を迎えたとされ、のちに娘を織田信光に嫁がせたともいう)。
☆ 清康の逆鱗に触れ両者の対立は決定的に
清康は攻撃先を今川氏支配下の東三河に定め、熊谷実長の居城・宇利城攻撃を攻撃した。『三河物語』によれば、信定は宇利城大手口の寄せ手として、次兄の福釜松平家親盛と共に戦うが、劣勢となった親盛に病と称して助勢を送らなかったため、結果として親盛の父子は信定のせいで討ち死にした。
これを目撃した清康は怒り、合戦後に衆目の前で信定を責めたという(一説にこれを深く恨んだともいう)。
同年の吉田城攻めでは、城の西岸・宝飯郡下地において城方と会戦した際、緒戦の戦況の不利に興奮し敵中への突撃を試みる清康に対して、「大将に討ち死にをさせよ」と発言し敢えて制止しなかったともいう。
宗家の座を狙う
★ 森山崩れによって混乱に乗じ岡崎城を乗っ取る
1535年、遠征先の尾張国守山において清康が陣中にて家臣の阿部正豊に暗殺されると(森山崩れ)。この遠征に加わらなかった信定は、松平宗家の混乱に乗じて、松平家総領の座を巡って清康の遺児の松平広忠と対立。信定は竹千代の居城で清康の居城であった岡崎城を占領した。広忠は家臣らに守られ伊勢に逃れた。
★ 今川家の援軍を得た広忠に破れ服従する
広忠は忠臣・阿部定吉の働きなどにより、今川義元の支持を得て今川軍の援護と共に幡豆郡の室城へ入城した。
信定は、岡崎を奪回されるのを恐れてこれを攻めるも失敗。また、大久保忠俊ら三河に残る広忠派の譜代家臣が広忠の岡崎復帰を支援し、1537年、信定の岡崎城留守居であった松平信孝(信定の甥、清康の弟)が広忠派に寝返り、広忠を岡崎城に迎え入れた。情勢の不利を悟った信定は広忠に服従した。
最 期
★ 家督争いは沈静化するが恭順とは程遠い態度をとり続けた
松平家の家督争いは鎮静化するも、信定は広忠に対して恭順とは程遠い態度をとり続けた。このため、広忠派であった弟・松平義春とすらも対立した。そのなかで1538年12月18日に死去した。
その後の桜井松平家
★ 宗家への反意は孫の世代まで続く
長男・清定(内膳正・与一)や孫・家次(監物丞)も宗家に反意を示していたが、1564年春、三河一向一揆の終息と共に宗家に完全に帰服した。
また、江戸時代に入ると桜井松平家は各地に転封するが、1711年に10代松平忠喬が移封されて以後摂津国尼崎藩に定着した。
明治維新後の1882年に創建された桜井神社(兵庫県尼崎市)には、信定以来16代櫻井忠興(最後の藩主)までの歴代当主が祀られている。