応仁の乱を戦い六角家の基礎を構築した六角家12代当主
六角 高頼
概 要
南近江の戦国大名・六角家12代当主。応仁の乱では西軍に属し同族である京極家や従兄・六角政堯を破り、近江での権力を築いた。その後は寺社領の横領等を行い幕府と対立した。(長享・延徳の乱)
ポイント
- 六角久頼の子で六角家12代当主
- 応仁の乱では西軍に属し、京極家や六角政堯と戦う
- 長享・延徳の乱を勃発させる
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1520年
- 享年:?歳
墓 所
- 滋賀県栗東市岡(キョーラク工場敷地内)
名 前
- 幼名:亀寿丸
- 初名:行高
- 別名:右兵衛入道、四郎
- 神号:甲賀大名神
- 戒名:竜光院殿嘉山宗椿
官位・役職
- 官位: 大膳大夫
- 役職: 近江守護
氏 族
略 歴
| 1456年 | ?歳 | 父の自害により家督を継承する |
| 1458年 | ?歳 | 家臣や将軍・足利幕府の意向により従兄・六角政堯が近江守護就任する |
| 1460年 | ?歳 | 政堯が幕府に追放され高頼が近江守護となる |
| 1467年 | ?歳 | 応仁の乱が勃発 西軍に属し、京極持清、六角政堯らと戦う |
| 1470年 | ?歳 | 京極家で内乱が勃発(京極騒乱) |
| 1471年 | ?歳 | 六角政堯を討ち取る |
| 1475年 | ?歳 | 京極政経との戦いに勝利 |
| 1478年 | ?歳 | 幕府から近江守護に補任される |
| 1487年 | ?歳 | 幕府と対立し将軍・義尚の親征(将軍自ら戦にでること)を受け甲賀に逃走(長享の乱) |
| 1489年 | ?歳 | 義尚が死去したため親征が中止 |
| 1491年 | ?歳 | 将軍・足利義材の追討を受ける(延徳の乱) |
| 1491年 | ?歳 | 将軍・足利義材の追討を受ける(延徳の乱) |
| 1493年 | ?歳 | 明応の政変により義材が廃立し足利義澄が新将軍となる |
| 1495年 | ?歳 | 将軍・義澄によって近江守護に復権 |
| 1507年 | ?歳 | 管領・細川政元が暗殺される(永正の錯乱) |
| 1508年 | ?歳 | 細川高国、大内義興らに擁立され足利義材が将軍となる 追放された前将軍・義澄を庇護する |
| 1506年 | ?歳 | 嫡男・氏綱に家督を譲って隠居 |
| 1518年 | ?歳 | 氏綱が死去し家督を定頼が継ぐ |
| 1520年 | ?歳 | 死去する |
父・久頼の死と家督相続
高頼の出生年については不明。
六角家の内紛から当主となった父・久頼は身内の反乱のよって衰退した六角家の勢力を立て直すことができず、同族で四職の京極家の干渉に苦しめられていた。
そういった経緯もあり久頼は1456年に自害。これによって高頼は六角家の家督と近江守護を継いだが幼少だったため、従兄の六角政堯が後見人を務めた。
一時は将軍・足利義政の意向により守護職を政堯に奪われることもあったが、悪行を働いた政堯は幕府により追放され高頼が近江守護に復権した。
応仁の乱
西軍に属し京極持清、六角政堯らと戦う
1467年、応仁の乱が勃発すると高頼は細川勝元側の西軍に属し、京極持清らと京都で戦った。
持清の嫡男・京極勝秀や六角政堯が高頼の本拠地・観音寺城を攻めると近江に戻り政堯と戦った。
その後、1470年に京極持清の死去により京極家内が二つに分かれ弱体化すると(京極騒動)高頼はその隙をついて近江に勢力を伸ばした。また、勢いにのった高頼は清水城の六角政堯を攻め滅ぼした。
長享の乱と延徳の乱
長享の乱
応仁の乱が収束すると、高頼は幕府に帰参し、9代将軍・足利義尚より近江守護を与えられた。
しかし、高瀬は六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家。寺社勢力の統制を行おうとしたが、公家領・寺社領や奉公衆の領地を奪い配下の国人衆に分け与えたため、1487年、足利義尚は自ら軍を率い近江に進軍した。
幕府軍の侵攻をうけ高頼は本拠地の観音寺城を放棄し、甲賀山中に逃亡し幕府軍に対し徹底抗戦を行った。
しかし、1489年に足利義尚が近江鈎の陣にて病死したため遠征は中止された。
>延徳の乱
義尚が病死したことにより、土岐氏に擁立された足利義稙が新将軍となった。
義稙は高頼に寺社などの土地を無理やり奪った事を許す代わりに、奪った土地を返すよう要求したが、六角家の国人が土地の返還を拒否したため、1491年に再び幕府軍の遠征
が行われた。高頼は再び甲賀に逃れたが、義稙は高頼の近江守護職を廃し、新たに近江守護に六角政堯の遺児・六角虎千代を据えた。
しかし、1493年に管領・細川政元が足利義澄を擁立し新将軍にすると(明応の政変)
明応の政変により将軍となった義澄は六角虎千代を廃し、六角家の重臣・山内就綱を近江守護に任じた。
高頼はこの機に乗じて蜂起し、美濃の斎藤妙純らの支援を受けて、就綱を京都に追い返し、1495年、義澄より改めて近江守護に任じられた。
その後、妙純とは船田合戦で敵対している。
永正の錯乱
1507年、永正の錯乱によって管領・細川政元が細川義澄派の家臣によって暗殺された。そのため、大内義興・細川高国らは前将軍・義材を擁立し細川義澄を追放し義材を将軍復帰させた。
この時に京都から逃れた高頼は義澄を保護したが、義澄が病死すると、匿っていた水茎岡山城主・九里信隆を討ち取って義材支持を表明した。
守護代・伊庭氏との対立
第一次伊庭氏の乱
1502年、高頼が六角家筆頭家臣で守護代である伊庭貞隆を咎めたところ、貞隆とその一族は出奔、高頼に代わって政務を握ろうと、細川家臣・赤沢朝経などの協力を得て高頼に対し挙兵した。 貞隆の挙兵に六角家は対抗できず、六角家の城は次々と貞隆に攻略された。しかし、赤沢朝経が京都に帰還すると、細川政元の仲介で高頼と貞隆は和睦し貞隆は守護代に復帰した。
第二次伊庭氏の乱
1506年、高頼は家督を嫡男・氏綱に譲り隠居したが、氏綱が先死にしたため、僧籍にあった次男・定頼を還俗させて家督を継がせた。しかし、高頼の晩年になると、伊庭氏が北近江の京極氏および浅井氏の支援を受けて再び挙兵した。
※通説では貞隆に取って代わられることを危惧した高頼が貞隆の排除に乗り出したとされているが、近年では応仁の乱や六角征伐を通じて、守護・六角氏と守護代・伊庭氏との間で権力の併存が確立していたとする立場から、高頼と貞隆の政治的対立よりも伊庭氏と馬淵氏という重臣同士の対立や貞隆による足利義材の保護とそれに消極的な高頼の意見の対立による関係悪化が背景として存在しており、守護代(伊庭貞隆)の専横と守護大名(六角高頼)の対立と解釈する単純な図式に対する批判がある。 伊庭貞隆は浅井亮政の支援を受けて一時は高頼を、蒲生貞秀の音羽城へ敗走させたが、1520年に貞隆が死去すると、直後に高頼自身も死去した。
伊庭氏との争いは家督を継いだ定頼が京極軍を打ち破って九里氏を滅ぼしたことで事実上終焉し伊庭氏はそれまでの所領や所職のほとんどを没収され本領である神崎郡伊庭のみを安堵された。