京極家の家臣から下剋上を成し遂げた北近江の国主

浅井家あざい

三つ盛亀甲に唐花菱

三つ盛亀甲に唐花菱

概 要

北近江に勢力をもった国人。京極家の家臣であったが下剋上を果たし戦国大名となった。当主・長政は信長の妹・お市を正室に迎え同盟を結ぶがその後、同盟を破棄し信長を攻撃し対立関係となった。
その後、織田家との戦いに敗れた滅亡した。また、浅井家最期の当主・長政とお市の方の間に「茶々、初、江」が生まれている。

家系図

年 表

 1523年

浅井亮政が国人衆・浅見貞則と共に京極高清とその有力家臣・上坂信光を尾張へ追放

 1526年?

亮政が京極高清を擁立し貞則を失脚させる
亮政が国人の盟主となる

 1538年

京極高清が死去し、高延が家督を継ぐ

 1541年

高延が亮政に反旗を翻す

 1542年

亮政が死去し久政が浅井家の家督を継ぐ

 1550年

高延と和議を結ぶ

 1553年

六角義賢に敗れ浅井家が六角家に服属する

 1560年

久政の嫡男・賢政(長政)が野良田の戦いで六角家に大勝し独立を果たす
久政が隠居する

 1567?

信長と同盟

 1570年

信長が朝倉家攻略のため越前侵攻
長政が信長との同盟を破棄し織田軍に攻撃(金ヶ崎の戦い)
姉川の戦いが勃発

 1573年

信長により小谷城が陥落し浅井家が滅亡

浅井氏の出自

浅井氏の出自には2説有る。
一つは、「三条公綱落胤説」というものである。『浅井三代記』によれば、三条大納言公綱が朝廷からの処罰によって左遷され、近江守護の京極持清に預けられて、三条家の知行地として近江浅井郡丁野村(現・滋賀県東浅井郡湖北町)に住み、そこで授かった子が京極家に仕えて浅井重政を名乗った という。この重政が浅井氏の祖という。しかし、この説には色々と矛盾点があり、浅井氏が後に創作した話しだとされている。

もう一つは、第二には物部守屋後裔説である。これは敏達天皇、守屋大臣の後裔俊忠、その子式部大輔藤原忠次、初めて武家となり、浅井郡の五ヶ所村を知行して、俊政より27代後が浅井亮政とするものである。
亮政の父を廣政とする。これが浅井氏を物部姓守屋流とするものであるが、これも信憑性に欠ける。

北近江の支配者になる

浅井氏は元は近江守護・京極氏の家臣だったが、1470年頃、京極氏内部で内紛が勃発すると京極氏は弱体化、また、当主・京極高清は京都にいることが多かったため京極家を実質的に支配したのは高清の側近・上坂家信だった。
1521年、家信が死去し、家信の子・上坂信光が跡を継ぐが、信光は横暴な振る舞いで悪政を働いたため、1523年、浅見貞則を盟主とした浅井亮政・浅見氏・三田村氏・堀氏・今井氏といった北近江の国衆は上坂信光と京極高清・高慶父子を尾張へ追放し、京極高延(高清の子・高慶の兄)を新たな守護に擁立した。

しかし、国人の盟主だった浅見貞則もまた悪政を強めたため、大永4年末から5年初ごろに、浅井亮政は京極高清を復帰させることで浅見貞則を失脚させた。これにより亮政は国人一揆の盟主となり実質北近江の支配権を握った。またこのころから浅井氏と朝倉氏が同盟関係にあったと言われている。

六角家へ従属する

1538年京極高清が死去し、高延が跡を継いだ。しかし、これを好機として亮政が尾張へ追放した京極高慶が六角定頼と手を結んで浅井家を攻めた。
六角家の攻撃を受けた亮政は敗北し和議を結ぶが、今度はその内容に不満を抱いた高延が亮政に対して反旗を翻す。1542年に亮政が死去したこともあり高延は勢いに乗り、亮政の跡を継いだ久政は1550年ごろに高延と和議を結ぶ。 高延と久政は江南に攻勢をかけるが、1553年、逆に六角義賢に敗北し浅井氏は六角氏の従属関係となった。
また、これにより久政の嫡男・猿夜叉(後の長政)は義賢の偏諱を受け賢政を名乗り、六角氏重臣・平井定武の娘を娶った。

六角家からの独立

1560年、長政は六角家の娘であった嫁を強制送還し、強硬派家臣を率いて六角氏との決戦に臨んだ野良田の戦いで、六角家に大勝し、六角氏からの独立を成功させた。
また、強硬派家臣達は六角派であった久政を強制的に隠居させ、浅井長政が当主となった。
※しかし、隠居後も久政の影響力はあったという。

織田家との同盟

長政は美濃を支配した尾張の織田信長と同盟を結び、信長の妹のお市の方を妻として迎えて、六角氏から完全に自立を果たした。

その後、信長は将軍・足利義昭を擁立し上洛、畿内や地方に影響力を強めており、信長との同盟は臣従的であったが対六角氏との関係では効果的に機能した。

滅 亡

1570年に、信長が浅井氏の同盟国である朝倉義景を攻めるべく越前に侵攻した。これによって浅井家では織田と朝倉のどちらに味方するべきか意見が分かれる事になったが、浅井久政や宿将・赤尾清綱らの説得により長政は朝倉路線を選び信長との同盟を破棄し織田軍に背後から襲いかかった(金ヶ崎の戦い)。これにより浅井と織田は敵対関係となった。

1570年6月、浅井・朝倉勢と織田勢は近江の「姉川」で激突(姉川の戦い)この戦いは朝倉・浅井軍の大敗で終わった。その後、信長包囲網が形成されるが甲斐の武田信玄が病没すると、反撃を開始した信長は将軍・義昭を京から追放、その後、浅井家の居城・小谷城を攻撃し長政・久政親子は抗戦するが敗れ自害、浅井氏は滅亡した。

浅井家の末裔

長政の嫡男・万福丸は処刑され、万福丸の弟・万寿丸は福田寺に入り、浅井氏の嫡流は断絶したと考えられてきた。
しかし、正芸が還俗し直政と名乗り、その子孫が熊本県熊本市と大分県西国東郡真玉町に現存する。

その他、長政の庶子・浅井井頼が丸亀藩の客分となっていたことも分かっている。

主 な 拠 点

武 将 (名前クリックで詳細)

浅井亮政
(????-1542)

北近江の国人・浅井家の庶流・浅井直種の子。従兄・浅井直政の娘・蔵屋と結婚し浅井宗家を継ぐ。北近江の守護・京極高清や上坂信光らを追放し北近江国人一揆の盟主となる。

浅井久政
(1526-1573)

浅井亮政の子。六角家の傘下となる政策を執り家臣の反発にあったため家督を嫡男・長政に譲り隠居する。その後も影響力を持ったが信長の攻撃により浅井家が滅亡するときに自害する

浅井長政
(1545-1573)

久政の子。六角家の娘を嫁に迎えたが送還し反六角派の家臣達と共に「野良田の戦い」で六角家に勝利し信長の妹・市を正室に迎え六角家からの自立を果たした。その後、朝倉家との同盟を選び信長と敵対し居城を攻められ自害した。

浅井政元
(1548-1570)

久政の次男。兄・長政の参謀として活躍するが小谷城の戦いで父・兄と共に自害する。

浅井政之
(1548-1573)

久政の三男。姉川の戦いで戦死する

浅井治政
(????-????)

浅井久政の子。加賀藩に仕え代々越前国府中の総代を務めた。

浅井政元
(????-1570)

久政の三男。姉川の戦いにて戦死。

浅井政元
(????-1570)

久政の三男。姉川の戦いにて戦死。

海北綱親
(????-1573)

浅井家臣。赤尾清綱や雨森清貞と共に「海赤雨三将」と称され、浅井家3代にわたって仕えた重臣で軍奉行を務めた。

赤尾清綱
(1514-1573)

浅井家臣。海北綱親・雨森弥兵衛とともに「海赤雨三将」と称された。浅井家3代にわたって仕え当主からの信頼が厚く城内に居城を持つのを許され小谷城に赤尾曲輪を設け在番した。主家滅亡時に捕虜となり、斬首された。

雨森清貞
(????-????)

浅井家臣で雨森城主。浅井久政に重用され浅井氏の旗頭を務めた。浅井家滅亡時に討死したとも、逃亡し各地に離散したとも言われている。海北綱親・赤尾清綱と共に「海赤雨三将」と称された。