大和侵攻などで功績を挙げた細川政元の重臣

赤沢 朝経あかざわ ともつね

概 要

細川政元の重臣。
猛将として知られ政元の命令で各地を転戦し細川家の勢力拡大に貢献した。
政元が「永正の錯乱」によって暗殺されると、朝経も丹後の国人に敗れ自害した。

  ポイント

  • 細川政元の重臣
  • 各地の戦いで戦功をあげた猛将
  • 最期は丹後の国人に敗れ自害する

誕生・死没

  • 誕生:1451年
  • 死没:1507年
  • 享年:57歳

名 前

      
  • 加三、源次郎、愛王丸、悪太郎、澤蔵軒宗益

所 属

親 族

赤沢経隆
鈴木氏
兄弟 朝経、経堅、幸純、義経、長経(養子)
政経
養子 長経(弟)

略 歴

1451年 1歳  誕 生
1491年 41歳  六角高瀬討伐に従軍
1499年 49歳  大和国人討伐のため大和へ出兵
1503年 53歳  六角家と和睦
1504年 54歳  細川澄元の擁立を企てるが失敗
1506年 56歳  畠山家を破り高屋城を占領
再び大和へ出兵
1507年 57歳  主君・細川政元が暗殺される
丹後の国人の反撃を受け、自刃した。

赤沢家

赤沢氏は清和源氏(河内源氏の庶流甲斐源氏)の流れをくむ小笠原氏の庶流。伊豆で発祥した後に信濃に移り。宗家である小笠原家に仕えた。
1335年の「中先代の乱」(北条家再興の反乱)が勃発すると、赤沢家の当主・常興は小笠原貞宗に従って信濃に出陣し北条残党勢の鎮圧にあたり、 この時の武功により信濃筑摩郡浅間郷と更級郡四宮荘北条(塩崎)を与えられ、塩崎城を構えて居城とした。

朝経の上洛

赤沢朝経が家督を嫡嗣・政経に譲り上京する

1451年、朝経は赤沢経隆の嫡男として信濃で誕生した。
順調に家督を継いだ朝経は、細川持賢の関東出兵や、細川政元の犬追物に参加するなど細川氏の周辺で活動していた。
その後、家督をを嫡子・政経に譲り、父・経隆や弟の赤沢幸純(福王寺・大和守)とともに上洛し、以後、細川政元に仕えた。

細川政元のもとでの活躍

足利義政の弓道師範を務めてる

本家・小笠原氏を模倣して小笠原流の弓術を細川政元に伝授。さらに8代将軍・足利義政の弓道師範も務めた。

各地の戦いで戦功をあげ被官となる

1491年に10代将軍・足利義稙の六角高頼征伐(長享・延徳の乱)に従軍すると、政元に鷹狩の技能を認められてその被官となり、山城国・河内国・大和国など各地を転戦して武功を挙げ、山城上三郡守護代や幕府料所河内十七箇所の給人、妙法院領河内八箇所の代官、近衛家領山城五ケ庄の代官などに任じられている

将軍・足利義稙との対立

比叡山焼き討ち

1499年、主君・政元と将軍・義稙が対立し始めると朝経は政元の命令によって足利義稙に呼応する動きを見せた比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍を全焼させた。

大和侵攻

河内で義稙派として挙兵した畠山尚順に呼応した筒井順賢・十市遠治ら大和国人衆を牽制するため山城南部へ出陣し、、御牧城・水主城・槇島城を攻め落とし和国人衆追討に向かい山城から大和へ乱入、喜光寺や法華寺・西大寺・額安寺などを焼き討ちして大和北部を占領し、尚順派の国人の所領を没収した。

死 去

細川澄元を擁立し政元に反逆する

1504年、朝経は政元に対して反逆を計画するが失敗し、薬師寺元一の取り成しによって赦免された。しかし、元一が主君政元を廃し、養子である細川澄元の擁立を企てるとこれと結託したが、元一の弟・薬師寺長忠らによって鎮圧されて捕らえられた。
しかし、その豪勇を政元から惜しまれ朝経は罪を許され山城上三郡守護代に復帰した。以後も政元の家臣として活動、河内で畠山義英や畠山尚順らを破り、高屋城を占領した。再度大和に侵攻、再び法華寺を焼き、菩提山正暦寺、多武峰妙楽寺、龍門寺なども焼いて寺社勢力をも平定する。さらに三好之長と共に畿内各地に転戦して細川氏の勢力拡大に貢献した。

一色家に敗れ自害する

1507年、政元の命令を受けて丹後国の一色義有を攻めるが、その戦いの最中に政元が家臣の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らによって暗殺された(永正の錯乱)。
これを知った朝経は軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や石川直経ら丹後の国人の反撃を受け、丹後で自刃した。享年57。

養子であった赤沢長経は生還し細川澄元に仕えた。

参考資料(引用元)