応仁の乱で東軍に属し宗家と争う

六角 政堯ろっかく まさたか

概 要

六角家の庶流・六角時綱の子。若くして六角家の家督を継いだ六角高頼の後見を務めた。応仁の乱で東軍に属し、西軍に属した宗家と争う。

  ポイント

  • 六角家の庶流・六角時綱の子
  • 六角家当主・高頼の後見人を務める
  • 応仁の乱で宗家と争う

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:1471年
  • 享年:?歳

名 前

      
  • 幼名:初名
  •   
  • 通称:四郎

官位・役職

  • 役職: 近江守護

氏 族

親 族

六角時綱
養子 虎夜叉、虎千代

略 歴

1456年 ?歳  六角久頼が死去
高頼が家督を継ぎその後見人となる
1458年 ?歳  幕府が高頼を追放し、政堯が家督を相続し近江守護就任する
1460年 ?歳  幕府に廃嫡され家督が高頼に戻る
1467年 ?歳  応仁の乱が勃発
東軍に属し、西軍に属した高頼と争う
1469年 ?歳  京極持清が近江守護に任命される
1470年 ?歳  京極持清が死去し京極騒乱が勃発し弱体化する
1471年 ?歳  三度目の近江守護に任命されたが、高頼に破れ戦死した

高頼の後見人となる

出生年は不明。六角時綱(六角家庶流)の子として誕生した。
叔父である六角家11代当主・六角久頼が死去すると、その跡を継いだ従弟・六角高頼が幼少だったため、政堯が後見人を務めた。
しかし、1458年、室町幕府によって亀寿丸は追放され、代わりに政堯が近江守護に任命され六角氏の当主となったが、その2年後に守護代・伊庭満隆の子を殺害したせいで政堯も廃嫡、家督は高頼に戻された。

応仁の乱

西軍に属し京極持清、六角政堯らと戦う

応仁の乱が勃発すると宗家・六角高頼が西軍に属すと、政堯は東軍に属し、京極持清やその子、勝秀らと共に六角氏の本拠地観音寺城を陥落させ、2度目の近江守護に再任された。
1469年に高頼が観音寺城奪還に向かうと、東軍は政堯を解任、近江守護に京極持清を任じた。
だが、その翌年に持清が死去、そのため京極氏では持清の嫡孫・孫童子丸を擁立した三男・政経と高清派の次男・政光が争い「京極騒乱」が勃発し、京極氏は東西両軍に分かれて弱体化した。
その結果、政堯は政経と共に東軍側、西軍に寝返った政光・高清・高頼と対立し、孫童子丸死後に三度目の近江守護に任命されたがその直後に高頼に敗れ、戦死した。

政堯の子孫

政堯の死後、養子・虎夜叉が近江守護に任命されたが、政経に守護職を奪われた。もう1人の養子・虎千代も長享・延徳の乱で近江から逃亡した六角高頼に代わって幕府から近江守護に任命されたが、明応の政変で後ろ盾を失い、没落した。
佐々成政は政堯の子孫だと言われている。