ポイント
- 主家・京極家の内紛に乗じて勢力を拡大
- 朝倉家と結び北近江の戦国大名となる
- 六角家と争う
基本情報
| 誕 生 | ???? |
| 没 年 | 1542年 |
| 墓 所 | 徳勝寺(滋賀県長浜市) |
| 通 称 | 新三郎 |
| 戒 名 | 救外宗護居士 |
| 官 位 | 備前守 |
| 氏 族 | 浅井氏 |
| 主 君 | 京極高清→高広 |
| 家族構成 | |
| 父 | 浅井直種 |
| 養父 | 浅井直政 |
| 母 | 不明 |
| 正室 | 浅井蔵屋(浅井直政の娘) |
| 側室 | 馨庵寿松(尼子氏の娘) |
| 兄弟 | 政種、亮政、井演、女子(下坂与一室 |
| 子 | 久政、政弘、虎夜叉(山城守)、鶴千代、松市(三田村定頼室)、寿慶(浅井忠種室) |
| 養子 | 田屋明政 |
略 歴
| 1523年 | ?歳 | 浅見貞則が中心となり浅井・三田村・堀・今井ら国衆が主家・京極国清と上坂信光に対して一揆を形成 一揆が国清を追放し高延を家督にし京極家内で浅見家が権力が高まる 浅見氏に対抗し小谷城を築城 |
| 1525年 | ?歳 | 京極高清を復権させ浅見氏を失脚させる 浅井家が国人衆の筆頭となる 六角家の侵攻を撃退 |
| 1528年 | ?歳 | 上坂信光が高延と結び浅井家と争う |
| 1531年 | ?歳 | 米原氏で六角氏と争いや敗れる |
| 1533年 | ?歳 | 六角家と和睦する |
| 1538年 | ?歳 | 京極高清が死去し、高延(高広)が家督を継ぐ 京極高慶が六角定頼と通じ挙兵 佐和山で六角軍と戦い破れる 六角家に従属する |
| 1541年 | ?歳 | 六角家と浅井家の和睦に不満をもった京極高広が浅井家に反旗を翻す |
| 1542年 | ?歳 | 死去 |
誕生と家督相続
亮政の出生年については不明だが、北近江の国人である浅井氏の庶流・浅井直種の子として誕生した。
その後、浅井氏宗家である従兄・浅井直政の娘・蔵屋と結婚し、直政の跡継ぎとなり浅井家嫡流の跡を継いだ。浅井氏は北近江半国の守護・京極氏の家臣。
京極家内部の抗争
1523年、主家である京極高清が家督を次男・高吉に譲ることに反発した浅井・三田村・堀・今井ら国衆は、浅見貞則を筆頭に国人一揆を形成した。一揆は高清の長男・高延を擁立し、高清・高慶さらに有力家臣の上坂信光を尾張へ追放した。
国人一揆の盟主であった浅見貞則は京極高延のもとでの新体制でも中心となったが、高延を軟禁し横暴な振舞いを行った。そのため、亮政は浅見氏と対立、上小谷城の築城を進め、京極高清を復帰させることで、浅見定則を失脚させた。さらに京極高延も小谷城に迎え、亮政は国人一揆の盟主となった。
六角家との戦い
京極家の執政として勢力を拡大しつつある亮政に対し、南近江守護の六角定頼が浅井領へ侵攻すると、亮政は朝倉教景の仲介により六角氏は一時和睦した。
1531年、六角氏と浅井氏が箕浦で戦闘となり、激戦の結果浅井方が敗れた。
1533年、六角氏と京極氏の和睦が成立し、亮政は六角方に出頭したこのように頻繁に六角氏の侵攻を受けたことにより、外敵への危機感を抱いた国人らが結束を強め、かえって対内的には浅井氏の力は強まり浅井亮政は完全に国人一揆の上に立つこととなった。
1538年、京極高清が死去し、高延(高広)その跡を継いだ。これを機に京極家の家督を追われた高慶が六角定頼と通じ挙兵、佐和山で浅井亮政を破り佐和山城を攻略した。その後も六角家は進軍を進め小谷城の近くで六角軍が京極・浅井家を破り、浅井家は六角家に従属し六角定頼は京極高慶と上坂定信を京極家に定着させて定頼は帰陣した。
天文10年(1541年)今度は京極高広が亮政に反旗を翻した[54]。亮政が六角氏に降ったために、和議条件に不満があったためと考えられる[48]。
亮政は天文11年(1542年)1月6日に死去した[55][56]。徳勝寺に葬られ、法名は救外宗護[57]。『証如日記』天文11年3月4日条に浅井備前の香奠の記事があり、天文13年の法会のために描かれた肖像の賛に戒名の記載があることなどから、『 浅井三代記』が「生年五十二歳にして天文十五年七月十七日逝去なり死骸は住所丁野村にて取置小谷の麓田川山辺に寺を営み救外寺殿英徹高月大居士と贈名し」としているのは史実ではない[58]。
死後、側室との間の子・久政が家督を継ぐが、亮政は正室蔵屋との間の子・鶴千代の夫として田屋明政を婿養子として迎えていた。久政と明政との間に家督を巡る争いが生じたかははっきりしないが、高橋昌明は互いの派閥同士の内紛・暗闘が続いたと推測している[59][60]。いずれにせよ亮政の死と、若年の久政による家督継承は、それに乗じた京極高広が勢力を伸ばすことに繋がった
京極家の対立と死去
1541年、六角家との和睦条件を不服とし京極高広が亮政に反旗を翻し両者は対立した。
その戦いの最中、1542年に死去した。死後、側室との間の子・久政が家督を継いだ。
亮政の死により、京極高広が勢力を伸ばすことに繋がった
