足利義晴を支援し管領代となり六角家の全盛期を築いた六角家14代当主

六角 定頼ろっかく さだより

ポイント

  • 六角高頼の子で六角家14代当主
  • 六角家の全盛期を築く
  • 優れた内政手腕を発揮!信長が行った楽市楽座の創立者

概 要

南近江の戦国大名・六角家14代当主。六角高頼の次男。兄・氏綱の死去後、還俗し家督を継ぐ。細川高国を支援し 細川澄元三好之長長慶と争った。また、浅井家を従属下に六角家の全盛期を築き挙げた。

基本情報

誕 生1495年
没 年1552年(享年:58歳)
通 称四郎
幼 名亀王丸
諡 号江雲
戒 名雲光寺殿光室亀公大居士
氏 族六角家
官 位 従四位下弾正少弼
役 職近江守護、管領代
家族構成
六角高頼
古河公方・足利成氏の養女
正室呉服前
兄 弟 氏綱定頼、大原高保、和田高盛、梅戸高実、真玄、武衛娘(足利義澄の継室)?、今出川季孝室、京極材宗の室
細川晴元継室、、六角義賢、義頼、 土岐頼芸の正室、北の方、武田信豊
養 女 如春尼顕如の正室)

略 歴

1495年 1歳  六角高頼の次男として誕生
1499年 5歳  鹿苑院において景徐周鱗の門人となる
1518年 24歳  兄・氏綱が死去
還俗し家督を相続する
1520年 26歳  細川高国を支援
等持院の戦いで三好之長を破る
1523年 29歳  一国一城の基となる城割を命じる
1538年 44歳  浅井家を支配下に置く
1546年 52歳  足利義晴から管領代に任命される
1549年 55歳  江口の戦い三好長慶と戦う
1552年 58歳  京極政経との戦いに勝利

誕 生

1495年、六角家12代当主・六角高頼の次男として誕生した。
家督は嫡子・六角氏綱が継ぐため、定頼は5歳の時に京都にある相国寺鹿苑院において景徐周鱗の門人として剃髪、10歳頃には江月斎と名乗り正式に仏門に入った。
しかし、1518年に氏綱が細川氏との戦いで受けた戦傷が原因で早世したため、定頼が還俗して六角家の家督を相続することとなった。

六角家の全盛期を築く

両細川の乱では細川高国を支援し細川澄元配下の武将である三好之長を等持院の戦いで破り、両細川の乱を終結に導いた。
その後、義稙が高国と対立して出奔すると、高国と共に12代将軍・足利義晴を擁立し、その功績により管領代に任命された。
また、子女の多くを大名家に嫁がせるなど外交戦略を巧みに行い、足利将軍家の後ろ盾になることで、足利将軍家の後ろ盾として中央政治にも介入し中央政治をも左右するほどの勢力を持ち、江口の戦い等で三好長慶とも戦っている。
近江領内では、北近江の領主・浅井久政の浅井家に侵攻して事実上従属下に置くなどし、六角家の全盛期を築き上げた。
しかし、1552年に死去。享年58。後を嫡男・義賢が継いだ。

優れた内政手腕

一国一城令

日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じ、江戸時代に行われた一国一城令のモデルとなったといわれている。

>楽市楽座

織田信長が行ったことで有名な楽市楽座は定頼が創始した。
定頼は、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を一大商業都市にまで成長させた。信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したのである。
その功績は後に近江を支配した信長も敬意を払い、安土城を築き上げた際、城内に「江雲寺御殿」を築き上げたという。「江雲寺殿」とは定頼の法名であり、信長が定頼の政策に敬意を表したためといわれている。