鎌倉時代から南近江を支配した古豪

六角家ろっかく

隅立て四つ目

隅立て四つ目

概 要

南近江に勢力をもった守護大名。近江源氏と呼ばた宇多源氏佐々木氏の流れを汲んだ一族。
鎌倉時代に佐々木秦綱が京都六角東洞院に屋敷を構えたことから「六角氏」と名乗った。鎌倉時代に守護として南近江一帯を支配し分家には「大原氏、高島氏、京極氏」などがいる。
戦国期になると京極氏や浅井氏、幕府、三好氏などと争った。その後、信長の上洛軍に敗れ居城の観音寺城を退去し大名としての六角家は滅亡、当主・六角義治は豊臣秀次、秀頼に仕えた後に加賀前田氏の家臣となり加賀藩士となった。

家系図

年 表

                       

 1234年

六角家1代目当主・佐々木泰綱が近江守護となる

 1434年

将軍・足利義教の延暦寺攻撃命令をうけて延暦寺を没収する

 1441年

領内で嘉吉の徳政一揆が勃発

 1444年

一揆によって六角満綱、持綱親子が殺害され六角家の勢力が衰退する

 1467年

応仁の乱が勃発
応仁の乱で西軍に属し東軍の京極家と戦う

 1470年

京極家中で内紛が勃発。その隙をついて六角家が勢力を拡大

 1487年

応仁の乱終結後に公家領や寺社領などを横領し幕府の攻撃を受ける(長享の乱)

 1491年

将軍に就任した足利義材によって再び幕府からの追討を受ける(延徳の乱)

 1493年

明応の政変により細川政元側につき権力回復

 1495年

政元が擁立した足利義澄より近江守護に命じられる

 1496年

斎藤家の侵攻を撃退する(船田合戦)

 1499年

越前から京に進軍中の足利義材を坂本で撃退

 1508年

大内義興の上洛によって足利義材が復権
六角家は足利義澄を庇護する

 1511年

船岡山合戦いで味方だった細川澄元が敗北
六角家は足利義材に恭順する
守護代・伊庭氏との対立に勝利し六角家の戦国大名化が実現

 1518年

六角定頼が当主となる

 1520年

細川高国と協力し細川澄元の配下・三好之長を破る(等持院の戦い)
足利義晴を擁立し将軍とさせる

 1552年

六角定頼が死去し家督を義賢が継ぐ

 1557年

義賢が隠居し義治が家督を継ぐ※実験は義賢が握ったまま

 1558年

浅井家を傘下に置く

 1560年

反抗してきた浅井長政に敗れる(野良田の戦い)
斎藤家と同盟を結ぶ

 1561年

細川晴元救援のため畠山高政ともに京に進軍し三好義興と松永久秀と戦う(将軍地蔵山の戦い)

 1563年

重臣・賢豊が義治に惨殺される(観音寺騒動)

 1565年

足利義輝が三好三人衆に殺害される

 1566年

浅井家が六角領に侵攻(蒲生野合戦)

 1568年

織田信長が上洛
信長の上洛軍に敗れて甲賀郡に本拠を移す(観音寺城の戦い)

 1570年

佐久間信盛・柴田勝家を攻め立てる(野田河原の戦い)
朝倉義景・浅井長政と協力し織田軍を攻撃(野田・福島の戦い)
信長と和議を結び大名としての六角家は滅亡した。その後も義賢と義治は何度か挙兵している

六角氏の出自

六角氏は宇田源氏佐々木流の流れを汲む一族。佐々木氏は近江源氏とも呼ばれていた。
鎌倉幕府の創立に貢献した佐々木は西日本各国の守護を任され繁栄していたが、佐々木信綱の死後、信綱の子供達の間で財産(土地)争いが勃発した。
その結果佐々木氏は嫡流の六角家と支流である大原・高島・京極の四家に分かれた。
近江守護職は六角家が保持したままだったが、支流達も六角家同様に鎌倉幕府の直臣だったため、家臣団化できず同族争いは戦国時代末期までこの争いは続いていった。

室町時代

鎌倉幕府滅亡時には幕府側に最後まで味方するがその後降伏。足利尊氏が建武政権から離反すると尊氏方と北朝側について戦った。
室町幕府が成立すると一時、守護職を支流である京極家に奪われるが六角氏頼が近江守護に復権した。

しかし、支流の京極家が出世し出雲や飛騨の守護を任されると六角家の支配を受けない特権を与えられ、さらに将軍・足利義満の頃には幕府の要職をつとめる四職となり六角家と対立した。
六角家が勢力を拡大できなかった要因については同族との争いや領内にある比叡山の影響だと言われている。

応仁の乱の勃発と戦国時代

応仁の乱

応仁の乱が勃発すると、当主・六角高頼は西軍に属し、東軍方の近江守護となった京極持清や六角政堯と戦った。
1470年にライバル京極家内で内乱が勃発し京極家内が混乱すると、六角高瀬は近江に勢力を伸ばし六角政堯を破った。

長享の乱と延徳の乱

応仁の乱の終結後、高頼は幕府に帰参し9代将軍となった足利義尚により改めて近江守護を任命された。
しかし、高頼は寺社や奉公衆の所領を横領したため、将軍・義尚による幕府の討伐を受けることになった。(長享の乱)
幕府軍の討伐を受けた高瀬は甲賀山中に逃亡、近江守護は義尚の側近・結城尚豊に与えられた。しかし、戦いの最中に将軍・義尚が死去したため遠征は中止された。

義尚の死後、将軍に就任した10代将軍・足利義材は高頼を許し寺社領の返還を求めた。しかし、高頼はこれを拒否、そのため幕府は再び六角家討伐の軍を派遣した(延徳の乱)。
この戦いによって、近江守護は六角政堯の遺児・六角虎千代に与えらた。

高瀬の復権

1493年、管領・細川政元が足利義材を追放して、足利義澄を擁立し新たな将軍に任命した。
11代将軍となった義澄は虎千代から山内就綱を近江守護に命じた。高頼はこの機に乗じて蜂起し、山内就綱を京都に追い返し、義高から近江守護に命じられた。その後は細川政元と共に各地の戦いに参戦した。

六角家の戦国大名化

1498年、細川政元と敵対していた足利義材が河内で兵を挙げた畠山尚順に呼応し越中から近江まで南下した。
政元派の高瀬は近江でこれを奇襲し敗走させた。

1508年、大内義興の上洛により、足利義材が復権すると、高頼は足利義澄を保護した。しかし、船岡山合戦で義澄を擁立していた同志・細川澄元が敗北すると、高頼は義材に恭順した。その後は守護代・伊庭貞隆との対立に勝利し、六角氏の戦国大名化を成し遂げた。

周辺諸国との戦い

六角定頼が当主となると、六角家の勢力は近江一帯に加え伊賀国や伊勢の一部まで影響力を及ぼし六角家の最盛期を作り上げた。また足利義晴や義輝を何度も庇護している。

その後、定頼の子・義賢が家督を継ぐと、北近江の京極家や浅井家を傘下にすると畿内に進出した三好長慶と敵対し度々争った。

しかし、1560年、浅井長政が六角家に対して反旗翻すと「野良田の戦いで」長政に敗れ、次第に六角家の勢力は陰りを見せ始めた。

観音寺騒動

義賢が隠居し家督を義治が継ぐと、義治は浅井家に対抗するため美濃の斎藤家と同盟を結ぼうとするが父の反対もあって交渉は決裂した。

1563年、義治が父・義賢の重臣で六角家中で最も影響力の大きかった後藤賢豊親子を観音寺城内で惨殺する事件が勃発した。(観音寺騒動)
この事件により家中は動揺が走り、敵対していた浅井家に主替えする者も現れ、義治の権力は弱体化した。

大名としての六角家の滅亡

1568年、織田信長が足利義昭を擁立し上洛を開始した。始め信長は六角家にもこの軍勢に加わるよう提案したが六角親子はこれを拒否し、信長率いる上洛軍と戦った。
六角親子は三好三人衆であった岩成友通の援助を受けて徹底抗戦をしたが、観音寺城の向いの箕作城が陥落し、勝ち目がないと悟った六角親子は観音寺城を放棄、義賢は甲賀へ義治は鯰江城に立てこもった(東近江市)

その後、朝倉・浅井と連携して信長をゲリラ戦を用いて信長を苦しめたが朝倉、浅井が信長に滅ぼされると、義治は信長に降伏し大名としての六角家は滅亡した。

その後も義賢と義治は何度か信長に対して挙兵しているが次第に歴史の表舞台から消えていくことになる

その後の六角家

大名として滅亡した六角家だったが、最後の当主・六角義治は豊臣秀次に仕え秀次が秀吉によって自害すると豊臣秀頼に仕えた。

義治の後を継いだ婿養子・定治も義治と同様に豊臣秀頼の家臣となり大阪の陣等に参陣した。大阪の陣後は昔の家臣であった蒲生氏の客将を経て加賀国の前田氏の家臣として明治維新に至るまで仕えた。

主 な 拠 点

六角氏の一族(名前クリックで詳細)

六角満綱
(1401-1445)

近江守護六角家9代当主。3代将軍・足利義満の娘を娶り将軍家の庇護を受けるが6代将軍・足利義教が暗殺されると後ろ盾を失い、同時に発生した嘉吉の徳政一揆で領内は混乱した。満綱はその責任をとり近江守護を解任され、家督と守護職を嫡男・持綱に譲ったが、反対勢力に擁立された次男・時綱によって持綱と共に自刃した。

六角持綱
(????-1445)

近江守護六角家10代当主・満綱の長男。父・満綱が「嘉吉の徳政一揆」の責任によって近江守護を解任されると代わりに六角家の家督と近江守護を務めた。しかし、弟・時綱の反乱に破れ自害した。

六角時綱
(????-1520)

近江守護六角家9代当主・満綱の次男。父と兄・六角持綱に不満を抱く家臣団に擁立され父と兄を自害に追い込んだ。その後、幕府が派遣した京極持清と弟・六角久頼に攻め込まれ自害した。

六角久頼
(????-1456)

六角家11代当主。六角家9代当主・満綱の三男。元は僧籍であったが、長兄・持綱が次兄・時綱の反乱によって自害すると幕府の命を受けて還俗し時綱を討ち六角家11代当主となる。しかし、京極家の干渉に苦しめられ自害(憤死)した。

六角高頼
(????-1520)

六角家12代当主。応仁の乱では西軍に属し同族である京極家や従兄・六角政堯を破り近江での権力を築いた。その後は寺社領の横領等を行い幕府と対立した。

六角氏綱
(1492-1518)

六角家13代当主。六角高頼の子。父の隠居後家督を継ぎ将軍・足利義稙を支援する。また、応仁の乱で荒れた領内の復興や勢力拡大を図ったが27歳の若さで死去。

六角定頼
(????-1520)

南近江の戦国大名・六角家14代当主。六角高頼の次男。兄・氏綱の死去後、還俗し家督を継ぐ。細川高国を支援し>細川澄元、三好之長・長慶と争った。また、浅井家を従属下に六角家の全盛期を築き挙げた。

六角義賢
(1521-1598)

南近江の戦国大名・六角家15代当主。六角定頼の子。家督を継ぐと三好家に追われた将軍家や細川晴元を保護し三好長慶と戦う。その後は浅井家の反抗にあったが最終的に、信長の上洛軍に敗れて所領を失った。

六角義治
(1545-1612)

南近江の戦国大名・六角義賢の嫡男。六角家16代当主。筆頭家老・後藤賢豊を謀殺し、家臣の信頼を失い六角家を衰退させた。その後は織田信長の上洛軍に敗れ、諸国を流浪し、晩年は豊臣秀頼の弓師範を務めた。

六角義定
(1547-1620)

南近江の戦国大名・六角義賢の次男。六角家17代当主。兄・義治が蒲生野の戦いで破れた責任を負ったため代わりに家督を継いだ。信長に敗れた後は豊臣秀頼の家臣となった。

六角政堯
(????-1471)

六角家の庶流・六角時綱の子。若くして六角家の家督を継いだ六角高頼の後見を務めた。応仁の乱で東軍に属し、西軍に属した宗家と争う。

家臣団(名前クリックで詳細)

後藤賢豊
(????-1563)

六角家の重臣。智勇に優れ進藤家とともに「六角家の両藤」と称された。主君・義賢義治親子が上洛した際は警護役を務めたが、その影響力を恐れた主君・義治に長男と共に殺害された。

後藤高治
(????-1589)

後藤賢豊の次男。父・賢豊が六角義治に殺害されたため、家督を継いだ。信長が侵攻してくると六角家を離反し織田家に仕える。本能寺の変後、明智家に属したため所領を失った。その後、蒲生氏郷に仕えた。

後藤高治
(1401-1445)

後藤賢豊の次男。父・賢豊が六角義治に殺害されたため、家督を継いだ。信長が侵攻してくると六角家を離反し織田家に仕える。本能寺の変後、明智家に属したため所領を失った。その後、蒲生氏郷に仕えた。

蒲生定秀
(1508-1579)