六角家の重臣として観音寺騒動で主家のピンチを防いだ

蒲生 定秀がもう さだひで

玉縄城

蒲生定秀像(信楽院蔵)

ポイント

  • 蒲生家の分家で六角家の重臣
  • 蒲生家宗家を攻撃、降伏させ蒲生宗家となる
  • 先鋒として各地の戦いに参陣
  • 観音寺騒動で主家のピンチを救う

概 要

六角家の重臣。京都出陣や浅井家との戦いなどで戦功をあげたほか、観音寺騒動が勃発するとその調停と収拾に尽力した。

基本情報

誕 生1508年
没 年1579年(72歳 病死)
通 称藤十郎
法 号快幹軒宗智
官 位下野守、左兵衛大夫
氏 族蒲生氏(六角氏の庶流)
主 君六角定頼→義賢→義治→織田信長
家族構成
蒲生高郷
馬淵山城守の娘
兄 弟 定秀、女子(岩室直祐室)、女子(河井甲斐守室)、女子(蒲生秀紀室)、堯清、女子(美濃部下総守室)、賢洪、秀洪、梵純
賢秀青地茂綱、女子(神戸友盛室)、女子(美濃部上総介室)、小倉実隆、女子(池田忠知室、早世)、女子(関盛信室)

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略 歴

1508年 1歳  誕生
1523年 16歳  音羽城の蒲生秀紀を攻撃し降伏させる
蒲生家宗家の家督を相続
六角義治が家督を継ぐ
1530年 23歳  六角定頼の京都出陣に同行
1531年 24歳  浅井亮政と戦う
1552年 45歳  義賢が六角家の家督を就任
伊勢国攻略を任される
1558年 51歳  浅井家の佐和山城を攻撃
1563年 56歳  観音寺騒動が勃発しその収容に貢献
1564年 57歳  小倉宗西家を滅ぼし所領拡大
1567年 60歳  信長の上洛軍によって六角家が滅亡
信長に仕える
1579年 72歳  死去

蒲生氏とは

蒲生氏は中世以降藤原北家秀郷流を称し、近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、室町時代に守護大名となった六角氏に客将として仕えた一族。定秀はその分流として生まれた。

生 涯

誕生と蒲生氏

1508年、六角家の家臣である蒲生高郷(蒲生家分家)の子として誕生した。
元服すると主君・ 六角定頼の一字を与えられ、定秀と名乗った。

定秀は蒲生氏の分家で、本家の家督は定秀の従兄弟・蒲生秀紀が継いでいたが、秀紀が幕府寄りであったのに対し、高郷・定秀は主君・六角定頼の信任を受けていたため、その後ろ盾を得た。 また六角家中有数の重臣である馬淵氏から正室を迎え、六角家中での地位を固めた。

蒲生宗家相続

1522年に音羽城の蒲生秀紀を攻撃し、8カ月に及ぶ籠城戦の末に秀紀を降服させ、六角定頼の仲裁で秀紀から定秀に蒲生家の家督を譲る事で和睦が成立し、蒲生家の家督を相続した。
定頼は蒲生氏の居城であった音羽城を破却し、秀紀を毒殺した。その後、日野城(中野城)を築き居城とした。

六角家での活躍

定秀は定頼の家臣として京都出陣や浅井亮政との戦いなどで活躍。なかでも浅井家との「蓑浦の戦い」では首級を29挙げた。
六角氏が細川晴元に加勢した際、子・賢秀と共に、三好長慶と戦った。
1552年、主君・定頼の死後は家督を継いだ六角義賢に仕え、伊勢国攻略を任されるなど活躍した。このように定頼は六角家の主要な合戦の大半に参加し、大いに武功を挙げた。その後、1558年に出家し快幹軒宗智と号し。

観音寺騒動

1563年、六角氏の重臣であった後藤賢豊が主君・六角義治に殺害され「六角騒動」が勃発すると、定秀は賢豊の遺児・後藤高治、義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。 しかし、この内紛により六角家の権力は衰退していくことになった。

信長に仕える

1564年、小倉宗家に養子に入れていた実隆が小倉西家(小倉氏庶流家の一つ)との抗争の中で敗死すると、定秀は小倉西家の拠点である山上城や八尾城を報復攻撃し、小倉西家を滅ぼして所領を拡大した。
その後1568年、信長の上洛軍によって六角氏が滅亡するち定秀は織田信長に仕え、1579年に死去した。72歳