本能寺の変の際に信長の妻子を保護した忠義者

蒲生 賢秀がもう かたひで

ポイント

  • 蒲生家の分家で六角家の重臣
  • 信長上洛軍に降伏し以後信長に仕える
  • 本能寺の際に信長の妻子を助ける

概 要

六角家の重臣。六角家で観音寺騒動が勃発すると父と共にその調停と収拾に尽力した。しかし、信長の上洛軍に最後まで抵抗するが妹婿・神戸氏の説得により信長に降伏すると織田家に属した。本能寺の変の際は信長の妻子の逃亡を助けた。

基本情報

誕 生1534年
没 年1584年(51歳 病死)
通 称藤太郎、権太郎
墓 所滋賀県蒲生郡日野町の法雲寺
福島県会津若松市の恵倫寺
戒 名恵倫寺天英恵倫大徳
官 位左兵衛大夫
氏 族蒲生氏(六角氏の庶流)
主 君義治織田信長
家族構成
蒲生定秀
馬淵山城守の娘
正室後藤賢豊の娘
側室お冬
兄 弟 賢秀青地茂綱、女子(神戸友盛室)、女子(美濃部上総介室)、小倉実隆、女子(池田忠知室、早世)、女子(関盛信室)
蒲生氏郷、女子(関一政室)、女子(田丸具直室)、女子(小倉左衛門尉室)、三条殿(養子?)

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略 歴

1534年 歳  蒲生定秀の子として誕生
1549年 16歳  三好長慶と戦う
1563年 30歳  観音寺騒動
1568年 35歳  信長の上洛軍に破れ降伏
息子・鶴千代(後の氏郷)を人質として差出し信長の家臣となる(柴田勝家の与力)
1570年 37歳  信長の朝倉討伐に参陣
1573年 40歳  六角義治が籠城する鯰江城を攻撃
足利義昭の槇島城を攻める
1574年 41歳  伊勢長嶋攻めに参陣
1579年 46歳  父・定秀が死去
1582年 49歳  本能寺の変
光秀の誘いを断り織田家に忠誠を尽くす
家督を氏郷に譲る
1583年 50歳  秀吉に方につき娘を秀吉の側室とした
1584年 51歳  死 去

蒲生氏とは

蒲生氏は中世以降藤原北家秀郷流を称し、近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、室町時代に守護大名となった六角氏に客将として仕えた一族。賢秀の血筋はは元々蒲生氏の分家だったが、父・定秀が本家を倒し宗家となった。

六角家臣時代

1534年、六角氏重臣・蒲生定秀のとして誕生した。
元服すると主君・六角義賢より偏諱を受け、賢秀と名乗った。

1549年、六角義賢が細川晴元を支援すると、晴元と対立していた三好長慶と戦った。
また、1563年、六角家の重臣・後藤賢豊六角義治に殺害される観音寺騒動が勃発すると父・定秀と共にその収拾に尽力した。その後、1567年に分国法「六角式目」が制定されると定秀と共に連署した。

1568年、織田信長足利義昭を擁立し上洛を開始した。六角家はこれに抵抗したため信長上洛軍と六角家の戦いが勃発した(観音寺城の戦い)
六角賢秀・義治親子は上洛軍相手に善戦するが、激しい戦いの末、六角家は信長に敗北し没落した。
賢秀は敗北を聞いてもなお日野城に籠城し、抵抗する様子を見せていたが、賢秀の妹を妻としていた織田家の家臣で伊勢国の国主・神戸友盛の説得により賢秀は降伏、賢秀は嫡男の鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、 柴田勝家の与力となった。

信長の家臣

信長の家臣となった賢秀と鶴千代父子は信長に気に入られ、鶴千代に娘の相応院を嫁がせて娘婿に迎えるほどであった。
その後は信長のもとで越前朝倉氏浅井氏攻めや旧主・六角氏攻め、足利義昭攻め、伊勢攻めなどに従軍した。
信長は岐阜を拠点にしていた頃は各地の合戦に賢秀・氏郷親子をお供させていたが、安土を拠点にしていた頃になると、毎度出陣の度に賢秀を安土城の留守居として残していたという

1582年に本能寺の変が勃発すると、賢秀は安土城二の丸を守備しており、氏郷を日野城から呼んで、安土城から信長の御台君達を日野城に避難させて、立て籠もった。
脱出の最中、信長の女房衆から安土城を焼き、城内の宝物を持ち出すよう賢秀に言ったが、「神仏の加護から見放されてしまう」と断り、「宝物を取るとは欲にふけっている」と批判されるので、そのまま退城したという。

その後は、豊臣秀吉方につき、娘・三条殿を秀吉の側室とさせた。

1584年に死去した。