家臣の信頼を失い六角家衰退の原因を作った六角家16代当主

六角 義治ろっかく よしはる

ポイント

  • 六角義賢の子で六角家15代当主
  • 六角家の重臣・後藤賢豊を殺害し六角家を衰退させる
  • 六角家の滅亡後は諸国を放浪し最終的に豊臣秀頼の弓術師範となる

概 要

六角義賢の嫡男。六角家16代当主。筆頭家老・後藤賢豊を謀殺し、家臣の信頼を失う。織田信長の上洛軍に敗れ、諸国を流浪し、晩年は豊臣秀頼の弓師範を務めた。

基本情報

誕 生1545年
没 年1612年(享年:68歳)
別 名義弼、佐々木義治、佐々木次郎、佐々木義堯
諡 号鵬庵玄雅
氏 族六角家
官 位右衛門督
家族構成
六角義賢
畠山義総の娘
大原高賢室、六角定治室
同年代の武将
宇都宮広綱浅井長政土屋昌続板倉勝重蜂須賀正元上井覚兼大内定綱大久保長安増田長盛三木顕綱六角義治、山内一豊佐竹義斯宗像氏貞香川春継北条氏規

略 歴

1545年 1歳  六角義賢の嫡男として誕生
1557年 13歳  元服
1563年 19歳  重臣・後藤賢豊を殺害(観音寺騒動)
1565年 21歳  将軍・義輝が殺害される
義昭が近江から越前に出国
1568年 24歳  信長が上洛を開始
観音寺城の戦いで信長に破れ鯰江城に立てこもる
1573年 30歳  浅井・朝倉が信長によって滅亡する
六角家が信長と和睦し義治が鯰江城から退城(大名としての六角家滅亡)
以降は足利義昭→豊臣秀吉に仕えたか?
1612年 68歳  死去

家督相続

義治は六角家15代当主・六角義賢の嫡男として誕生した。母は能登国の戦国大名・畠山義総の娘。
義治の初名は義弼であるが室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱受け、義治と名乗った。

1557年、父・義賢が隠居すると、家督を継承して六角家16代当主となった。だが実権は依然として父・義賢が握っていた。
1560年には離反した浅井氏に対抗するため、美濃斎藤氏との縁組を進めようとするが、父の怒りを買って重臣たちは処分され、義治自身も処罰をうけている。

観音寺騒動

1563年、義治は六角家家臣の中でも権力を持ち義賢からの信頼と、人望のあった重臣・後藤賢豊親子の影響力を恐れ観音寺城内で誅殺した。この事件をきっかけに六角家臣達は義治への不満が爆発、さらに敵対している浅井長政に主替えする者まで現れ始めた。
この騒動で義治は一時、義賢と共に反発した家臣団に観音寺城を追われたが、重臣の蒲生定秀賢秀父子らの尽力により観音寺城に戻った。この騒動により六角家の力は衰退していくこととなった。

信長上洛

1565年、三好三人衆などが将軍・足利義輝を殺害した事件が勃発(永禄の変)。
義輝の弟・足利義昭和田惟政や義治を頼りに近江に逃亡し、義治も義昭を匿い支援した。しかし、三好三人衆が管領職などを条件にして義治を誘ってくると、義治はこれに応じて義昭と距離を取り始めたため、義昭は近江から出国し越前に逃亡した。

それから数年後、織田信長が足利義昭を擁立し上洛を開始した。
信長は六角親子にもこの軍に加わるよう援軍を要請したが、六角親子はこれを拒否し、そのため、信長上洛軍は六角領に攻め込んだ。六角家は三好三人衆の援助を受けて徹底抗戦を図ったが、激戦の末に観音寺城の戦いで敗北、六角父子は観音寺城を放棄し義賢は甲賀郡の石部城に、義治は愛知郡の鯰江城に逃亡し六角家は所領を失った。

その後は浅井長政朝倉義景と協力して信長に抵抗したが1573年に信長によって朝倉・浅井を滅ぼされると、義治は信長と和睦して鯰江城から退城した。
父・義賢はその後も石部城を拠点に、足利義昭による新たな信長包囲網の構築を御膳立てするなどして信長との戦いを続けたが、柴田勝家によって石部城が落とされると信楽に落ち延びた。

その後の義治

信長によって敗れた後の義治は足利義昭の下で毛利輝元やその家臣との外交交渉を行っているとされている。

信長の死後は、豊臣秀吉の御伽衆として足利義昭・斯波義銀らと共に仕え、秀吉の死後は豊臣秀頼の弓矢の師範を務めた。

その後、1612年)10月22日に加茂にて死去。享年68。位牌は父・承禎(義賢)と共に、京都府京田辺市の一休寺にある