信長の上洛軍に破れ所領を失った六角家15代当主

六角 義賢ろっかく よしかた

六角氏綱

ポイント

  • 六角定頼の子で六角家15代当主
  • 三好家に京を追われた足利将軍家を保護する
  • 信長の上洛軍に破れ所領を失うが最後までゲリラ戦で抵抗する

概 要

南近江の戦国大名・六角家15代当主。六角定頼の子。家督を継ぐと三好家に追われた将軍家や細川晴元を保護し三好長慶と戦う。その後は浅井家の反抗にあい、 さらに、信長の上洛軍に敗れて所領を失うがゲリラ戦を屈指し最後まで信長に対抗する。

基本情報

誕 生1521年
没 年1598年(享年:78歳)
通 称四郎、抜関斎
法 名承禎
戒 名梅心院
氏 族六角家
官 位従五位下・左京大夫
役 職近江守護、管領代
主 君足利義晴義輝義栄義昭豊臣秀吉
家族構成
六角定頼
呉服前
正室畠山義総の娘→畠山義総の娘(最初の正室の妹)
兄弟 細川晴元継室、、六角義賢、義頼、 土岐頼芸の正室、北の方、武田信豊
義治義定、娘(畠山義綱正室)、佐々木高一(梅心斎)
同年代の武将
青山重成蘆名盛氏有馬義貞犬童頼安小笠原信定片桐直貞河合吉統久保姫毛馬内秀範酒井正親三条の方塩屋秋貞陶晴賢菅沼定村高山定重武田信玄武田信高 (若狭武田氏)、 芳賀高定正木時忠益子勝家松平忠次松平康親最上義守六角義賢

略 歴

1521年 1歳  六角定頼の嫡男として誕生
1533年 12歳  元服
1549年 28歳  江口の戦いで三好長慶と戦う
1557年 36歳  嫡男・義治に家督を譲る
1558年 37歳  北白川の戦い
1560年 39歳  浅井家が反旗を翻す
野良田の戦いで浅井家に敗北
1561年 40歳  畠山高政と共に京都に進軍し三好義興と家老の松永久秀と対戦(将軍地蔵山の戦い)
1562年 41歳  久米田の戦いで三好実休に勝利
1563年 42歳  嫡男・義治が重臣・後藤賢豊を惨殺(観音寺騒動)
1565年 44歳  足利義輝が三好三人衆に殺害される
1566年 45歳  浅井家が六角領に侵攻
1568年 47歳  信長が上洛を開始
観音寺城の戦いで上洛軍に破れ甲賀郡に本拠を移す
1570年 49歳  南近江に進軍(野洲河原の戦い)
信長と和睦した承禎父子は実質的には降伏し大名としての六角家が滅亡
1573年 52歳  湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入る
信長に破れ甲賀郡に逃げる
1581年 60歳  信長によって伊賀が平定
キリシタンの洗礼を受ける
????年 60歳  秀吉の御伽衆となる
1598年 77歳  死 去

家督相続

義賢は1521年に六角家14代当主・六角定頼の嫡男として誕生した。
13歳で元服し、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受け、義賢と名乗った。
父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を支援して、江口の戦いなどで三好長慶と戦った。
1552年、父が死去すると六角家の家督を継いで15代当主となった。しかし、その5年後には隠居し家督を嫡男・義治に譲ったが、実権は義賢が握り続けた。

周辺諸国との戦い

三好家との闘い

父が没した後も13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好氏との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。
しかし1558年、北白川の戦いの後に義輝と長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し両者の戦いは一旦終わった。

浅井家の反旗

三好家との和睦が成立すると、対立していた北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始するがこれを地頭山合戦で撃退し、浅井氏を従属下に置いた。
義賢は自身家臣の平井定武の娘を久政の嫡男・猿夜叉(後の浅井長政)に娶わせ、自身の偏諱を与えて賢政と名乗らせた。
しかし、1560年、浅井長政が妻を離縁し義賢のもとへ妻を六角氏のもとへ送り返し、六角家に対して反旗を翻した義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。

六角家は浅井家に対抗するため、美濃の斎藤義龍と同盟関係を結び、以降、浅井氏との激戦が繰り広げられた。

観音寺騒動

上洛と三好家との和睦

1561年、細川晴元が三好長慶に幽閉されると義賢は晴元救援のため紀伊河内の守護・畠山高政と共に京都に進軍し長慶の嫡男・三好義興と家老の松永久秀と戦った。(将軍地蔵山の戦い)
これにより、一時的ではあるが三好氏を京都より追い出すことに成功している。
その後、1562年に高政が河内国で起きた久米田の戦いで長慶の弟である三好実休に大勝し、実休を敗死に追い込んでいる。その結果、義賢は上洛に成功し、徳政令を敷き山城国を掌握した。
しかし、義賢はなぜか山城を占拠した後は動かず、高政に督促されたが依然として停滞し、教興寺の戦いで畠山軍が壊滅すると山城から撤退、三好長慶と和睦した。

観音寺騒動

1563年、嫡男・義治が六角家の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。賢豊が義賢の信任が厚くその影響力を恐れた事が原因とされている。
六角家一の有力家臣が殺害さたことで家臣の多くが六角氏に対して不信感を爆発させ、義賢も義治を観音城から追放するまでに至ったが、重臣の蒲生定秀賢秀父子の仲介で義賢と義治は観音寺城に戻ることができた。

信長との戦い

足利義昭との対立

1565年、将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害されると、義輝の弟・足利義昭が近江の和田惟政の下に逃れた。義賢は惟政に協力し義昭を擁立し上洛する姿勢を見せたが、三好三人衆の説得に応じて義昭を攻める方針に転じたため、 義昭は朝倉義景の下に逃れた。

信長上洛

1568年、信長が足利義昭を擁立し上洛を開始した。信長は義賢に援軍を要請したが、義賢は三好三人衆と通じで信長の援軍要請を拒否、織田軍と戦った。
しかし、観音寺城の戦いで六角軍は大敗し、本拠地を観音寺城から甲賀に移した。

大名としての六角家の滅亡

1570年、義賢は甲賀郡から南近江に進軍し長光寺城に立て籠もる信長の重臣・佐久間信盛柴田勝家を攻めた(野洲河原の戦い)。
さらに朝倉義景・浅井長政や三人衆らと同盟し南近江の地で織田軍を圧迫し、徳川の援軍とも戦っている。この戦いでは同盟軍が優勢となり危機に陥った信長は同盟軍の切り崩しを図り、足利義昭を通じて六角家と和睦。この和睦をもって大名としての六角氏は滅亡したとする評価もある。

しかし、

ゲリラ戦

1572年頃になると義賢は再び信長へゲリラ攻撃を開始した。1573年には近江東に進出し鯰江貞景湖東に進出し鯰江貞景の鯰江城に入るり信長に抗戦した。
しかし、1573年に朝倉・浅井が信長に敗れると信長は柴田勝家に命じ鯰江城を攻め落とし義賢は甲賀南部の信楽に逃れた。

晩 年

信長によって追い詰められた義賢は甲賀と伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、あるいは隠棲していたともいわれるがはっきりしていない。
1881年に信長によって伊賀が平定されると義賢はキリシタンの洗礼を受け、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると義賢は秀吉の御伽衆となり1598年に死去した。

人 物

弓の名人

義賢は弓馬の名手として有名で、弓術は家臣の吉田重政に日置流(吉田流)を学び、唯一人の印可を受けた腕前であった。
また、馬術も大坪流を学び、佐々木流を興してその名を残している。嫡男・義治も晩年は豊臣秀頼の弓術師範としてその名を残している。