目 次
概 要
農民の出身ながら、織田信長に取り立てられ各地の戦で武功をあげる。
信長没後は柴田勝家を倒し次いで紀伊・四国・九州・関東を平定し天下統一を成し遂げた。
ポイント
- 農民の出身から天下人まで上り詰めた
- 織田信長に取り立てられ武功をあげる
- 明智光秀や柴田勝家を倒し天下統一を成し遂げた
誕生・死没
- 誕生:1537年
- 死没:1598年
- 享年:62歳
墓所
- 豊国神社(京都市東山区)
- 不動院(広島市東区)
- 高野山奥の院(和歌山県高野町)
- 国泰寺(広島市西区)
名 前
- 日吉丸? → 木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉→ 藤原秀吉 → 豊臣秀吉
あだ名
- 木綿藤吉、豊太閤、猿、禿げ鼠
神号
- 国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士
- 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士(神号)
官 位
- 従一位、関白、太政大臣、贈正一位
氏族
同い年の人物
親 族
父 | : | 木下弥右衛門?(竹阿弥、昌吉ほか) |
猶父 | : | 近衛前久 |
母 | : | 大政所 |
正室 | : | 浅野長勝の養女・高台院(ねね) |
側室 | : |
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兄 弟 | : |
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秀長、朝日姫(佐治日向守室 → 副田吉成室 → 徳川家康室) | ||
子 | : |
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養 子 | : |
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養 女 | : |
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略 歴
1537年 | 1歳 | 誕生 |
1554年 | 18歳 | 織田信長に仕官 |
1561年 | 25歳 | ねねと結婚 |
1568年 | 32歳 | 信長が上洛 |
1570年 | 34歳 | 金ヶ崎の戦い |
1572年 | 36歳 | 羽柴改姓 |
1573年 | 36歳 | 小谷城の戦い |
1575年 | 39歳 | 筑前守に就任 |
1577年 | 41歳 | 手取川の戦い 信貴山城の戦い |
1578年 | 42歳 | 三木合戦 上月城の戦い |
1582年 | 46歳 | 備中高松城の戦い 本能寺の変 山崎の戦い 清州会議 |
1583年 | 47歳 | 賤ヶ岳の戦い 大阪に拠点を移動 |
1584年 | 48歳 | 小牧・長久手の戦い 従五位下・左近衛権少将 従三位・権大納言 |
1585年 | 49歳 | 紀州征伐 四国攻め 近衛前久の猶子となり、藤原改姓 関白、内大臣如元 富山の役 惣無事令実施(九州地方) |
1586年 | 50歳 | 九州征伐 豊臣氏を名乗る 政大臣兼帯 |
1587年 | 51歳 | 太政大臣兼帯 バテレン追放令発布 聚楽第へ転居 惣無事令実施(関東・奥羽地方 |
1588年 | 52歳 | 刀狩り発令 |
1589年 | 53歳 | 鶴松が誕生 |
1590年 | 54歳 | 小田原征伐 奥州仕置き |
1591年 | 55歳 | 千利休に切腹を命じる |
1592年 | 56歳 | 関白辞職し、秀次に譲る 朝鮮出兵開始(文禄の役) |
1593年 | 57歳 | 秀頼が誕生 伏見城に本拠を移す |
1595年 | 59歳 | 秀次の関白並びに左大臣職を剥奪切腹を命じる |
1596年 | 60歳 | サン=フェリペ号事件 |
1597年 | 61歳 | 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役) |
1598年 | 62歳 | 太政大臣辞職 伏見城で死去 |
出 自
秀吉の出自には諸説ありどれも謎が多く、確実的な史実を示すことが現在出来ていない。
母である大政所については秀吉の晩年まで生存しているが、通説では秀吉の父、弥右衛門(実父)や大政所の再婚相手の竹阿弥は農民だったといわれているが、実際には織田家の足軽だったという説もありはっきりしない。
「木下」の姓についても、木下家出身のねねと結婚し初めて木下を名乗り、それまでは名字すら名乗れなかった下層明だった可能性も高い。
幼 少 期
各地を流転し今川家に仕える
通説では、秀吉は7歳の時に農民であった父・弥右衛門を無くし、ほどなくして大政所は竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と仲が悪く、いつも虐待されており、8歳に寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら各地を放浪しその中で商い・経済を学んだ。
その後、秀吉は駿河で今川氏の直臣・飯尾氏の配下であった頭陀寺城主・松下之綱に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。
秀吉は之綱のもとで3年ほど仕え之綱にも気に入られた出生していった秀吉だったが、その出生をよく思わない之綱の家臣達からいじわるや、ねたまれれるようになりこれを見かねた之綱は秀吉にお金を渡し尾張に帰るよう告げた。
織田信長に仕える
信長のもとで才能を開化させ頭角を表す
尾張に戻った秀吉は1554年に知り合いを通じ織田信長の小者(奉公する従者)として仕えると清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現し足軽大将として取り立てられた。
1561年には浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚した。
墨俣城築城
信長は斎藤家攻略のため斎藤家の居城稲葉山城との交通の便がよい墨俣に城を築く計画をしたが、斎藤龍興の妨害にあい計画はことごとく失敗していた。
その中で秀吉はこの城作りに名乗りをあげ、蜂須賀小六らとともに作業員2000人を集め、川の上流から木材をいかだにして流し墨俣で組たてるという技法でわずか数日で墨俣城を完成させ、翌年には信長により斎藤家は滅亡した。
信長上洛
信長の上洛戦では観音寺城の戦いで活躍。また信長が上洛すると明智光秀、丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。
朝倉討伐
信長が越前の朝倉氏と対立すると、信長は朝倉討伐の軍を派遣し秀吉もこれに従軍した。
討伐軍は順調に兵を進めていき金ヶ崎城を攻め落としさらに進軍しようとしたときに、盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井・朝倉軍に挟まれ絶体絶命となった信長軍は撤退を与余儀なくされるた。
この時、秀吉が帯の一番後ろである殿を務めることを名乗りでて、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務める功績をあげ信長を無事京都まで守り通した。
その後の「姉川の戦い」では、浅井から奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も、小谷城の戦いで夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落し浅井軍を二手に分裂させるなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげ、高い役職を与えれた。
羽柴秀吉の誕生
1573年、秀吉が信長に仕えてから20年近くたったころ、秀吉は信長の古くからの家臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつ貰い受け「羽柴秀吉」と名乗るようになった。
長浜城主
朝倉・浅井討伐で一番の功績をあげた秀吉は信長から浅井氏の領地を与えられた。
秀吉は琵琶湖のほとりである今浜の地を「長浜」と改め長浜城築城、交通の便がわるかった小谷城から院や書受けなどを移してここに移して城下町を作った。
さらに人材発掘に励み旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。
播磨・但馬平定
播磨を平定
1577年、秀吉は信長から毛利氏の影響下である山陽道・山陰道である中国路方面の攻略を任された。
秀吉は播磨国に出陣し、播磨中の諸勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房・別所長治・小寺政職らを従えさせ。
秀吉はさらに西へ進軍、但馬国へ侵攻すると岩洲城、太田垣輝延の篭もる竹田城を攻略すると黒田官兵衛より姫路城を譲り受けてここを中国攻めの拠点とした。
その後、上月城の戦いで毛利氏に属していた播磨の残党を倒し、備前・美作の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめた。
しかし、摂津国の荒木村重が信長に反旗を翻すと、秀吉の中国侵攻は一時中断された。このころに信長の四男・羽柴秀勝を養子に迎えた。
三木合戦
1580年、信長に味方していた播磨三木城主・別所長治が反旗を翻し毛利家に寝返り三木城に立て籠った。
長治は播磨で最大の勢力を誇っていたため、ほかの武将も次々と毛利氏に寝返り始め、秀吉は急いで三木城に向かい攻撃を開始した。
城攻めにあたり、秀吉の軍師・竹中半兵衛は「兵糧攻め」を提案し、三木城を取り囲んだ。
兵糧攻めは2年間にも及び、三木城内部では兵達が空腹に苦しみ、長治は降伏し切腹した。
後にこの作戦は「三木の干殺し」と呼ばれ、作戦を提案した半兵衛は決着前に病死した。
丹波平定
三木城を攻略し再び播磨を平定した秀吉は、再び北上して但馬に侵攻し、。山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし、山名氏の勢力を従え但馬国を織田氏の勢力圏とした。
秀吉は播磨経営に専念するために弟である秀長を竹田城主として但馬国の統治を任せた。
中国攻め
鳥取城の戦い
但馬を平定した秀吉は次に因幡山名・山名豊国が守る因幡国(現・鳥取県)の鳥取城を攻撃した。
豊国は秀吉の攻撃にあっさりと降伏したがこれに不満をもった因幡山名家の家臣団は豊国を追放し、毛利一族の吉川経家を新たな城主に据え置き3000の兵で鳥取城に立て籠った。
秀吉は鳥取周辺の米を買占め、さらに食料が早く尽きるように村人を鳥取城に逃げるよう仕向け、兵糧攻めを行った。3ヵ月たったころ鳥取城の食料は底をつき、空腹で死ぬもの出てきた。経家は秀吉に自分の命と引き換えに兵たちを助けるように申しいれ秀吉はこれを受け入れ鳥取城を攻略した。
備中高松城攻め
鳥取城を攻略した秀吉は1582年に備中国に侵攻し、毛利軍の清水宗治が守る備中高松城を攻撃した。
備中高松城は山に囲まれた低地にあり、城の周囲の沼が堀の役割を果たす守りの固い城であったため秀吉軍は苦戦を強いられた。
この状況に、秀吉の軍師・官兵衛は秀吉に「水攻め」を提案し、秀吉は多額のお金で近くの村人を集めわずか12日で備中高松城のまわりに全長3kmにおよぶ堤防を作り、近くを流れる足森川から一気に水を流し込んだ。
宗治は毛利軍に救援を要請し、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らを大将とする5万の毛利軍が援軍に駆けつけ、秀吉軍と対峙し、秀吉も信長に援軍を要請した。
本能寺の変と清州会議
中国大返し
備中高松城を取り囲み、毛利軍の援軍と対峙している最中に本能寺の変により主君・織田信長が死去した。
これを聞いた秀吉は官兵衛からの提案もあり、光秀を討つためすぐに行動に移した。まず、清水宗治の命と引き換えに城の兵を助けるという条件で毛利軍との和睦を行い、急いで備中から京都に軍を引き返し200kmを1週間足らずで駆け抜けた。(中国大返し)
山崎の戦い
秀吉は京都に向かう途中で光秀の寄騎であった中川清秀や高山右近などを味方につけたほか、信長の三男・織田信孝を初め池田恒興や丹羽長秀らの軍勢も加わり、秀吉軍は総勢4万の大軍となった。
これに対して明智軍は1万6000人しかおらず思うように味方を集めることができず、光秀は大軍が一気に通れない京都の山崎でこれを待ち構えた。
秀吉軍は天王山のふもとに陣を置き、軍師・官兵衛は戦場を見下ろせる天王山にいち早く陣を構えた。
雨が降る中、戦いが始まった、池田恒興や高山右近など多くの武将が攻撃をしかけ光秀軍の家臣を次々と打ち破るとやがて光秀軍は総崩れとなり、光秀は反撃をあきらめ、勝龍寺城に逃げ込み、開始からわずか2時間で秀吉軍の圧勝で戦いに決着がついた。
秀吉は逃げる光秀軍を追撃、2万の軍勢で勝龍寺城を取り囲み、光秀はわずかな仲間をつれて城を脱出し、居城・坂本城へ戻ろうとしたが途中の小栗栖の山中で農民に殺された。
清州会議
山崎の戦いのあと、信長の重臣であった柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・豊臣秀吉の4名で信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が清州城で開かれた(清州会議)
本能寺の変で信長の嫡男・織田信忠も戦死したため、有力な後継者は信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝の2人だった。
勝家は三男・信孝を推薦したが、秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。
勝家はこれに反対したが、秀吉の根回しの結果、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
また、信長の所領分割においては遺領分割では、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢と伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝は丹後国、筒井順慶は大和国、丹羽長秀は近江国の滋賀郡・高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎と大坂15万石の加増、勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。
秀吉自身は、播磨国・但馬国に明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国・河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。
柴田勝家との戦い
秀吉と勝家の対立が激化
清州会議の後、秀吉は光秀の旧領であった山崎に宝寺城を築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。
賤ケ岳の戦い
1582年12月、秀吉は柴田勝家が雪で動けないのを好機とし、信孝に対して三法師を安土に戻さない事を理由に信孝打倒のために5万の大軍の兵をあげた。
秀吉軍はまず、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲し降伏させ、美濃に侵攻し信孝から三法師を奪い信孝を従わせた。
その翌月には、反秀吉派の一人であった滝川一益が伊勢で反秀吉の挙兵をあげると、秀吉は蒲生氏郷を伊勢に派遣した。それに呼応して勝家も3万の兵を率いて出陣し近江で秀吉軍と柴田軍のにらみ合いが続いた。
しかし、織田信孝が秀吉を裏切り美濃で挙兵して秀吉方の稲葉一鉄を攻めた。
信孝の反乱を聞いた秀吉は急いで美濃向かったが、勝家はこのチャンスを見逃さず奇襲を実行し中川清秀を敗死、高山重友を敗走させ、奇襲を成功させた。
しかし、岐阜から引き返した秀吉軍と再び対峙すると、勝家軍に参陣していた前田利家らのが突然戦線離脱と、秀吉軍の加藤清正ら「七本槍」と呼ばれる武将らが集中攻撃をしかけると柴田軍は総崩れとなり勝家は居城である北ノ庄城へ撤退した。
賤ケ岳七本槍
・加藤清正 ・脇坂安治 ・福島正則 ・加藤嘉明 ・片桐且元 ・糟屋武則 ・平野長秦
北ノ庄城の戦い
賤ケ岳の戦いで勝利した秀吉は逃げた勝家を追って、北ノ庄城(福井県)へ進軍を開始し。途中、前田利家を味方に引き入れ数万の兵で北ノ庄城を取り囲んだ。
秀吉軍は城を包囲した翌日に総攻撃をしかけ、城に火をつけ北ノ庄城は炎に包まれた。勝家は敗北をさとり、正室・お市の方の3人の娘(茶々、初、江)を逃がし、お市の方と共に自害した。
勝家討伐後
勝家を破った秀吉は加賀国、能登国、越中国も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵した。
その後、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。これにより織田家の実力者達を破り、従えたことにより秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を支配することになった。