信長の寵愛を受け秀吉に重用され文武に秀でた名将その器量をに恐れた名将

蒲生 氏郷がもう うじさと

蒲生氏郷肖像画

蒲生氏郷(西光寺蔵)

ポイント

  • 信長の寵愛を受け、信長の娘・冬姫を娶る
  • 豊臣秀吉に重用され会津若松92万石を領し若松城を改築
  • 文武に秀でたその器量を秀吉は恐れた

概 要

織田家臣。蒲生賢秀の子。氏郷の出自である蒲生氏は元は南近江の戦国大名・六角氏の家臣であったが、父・賢秀が織田に降り以後、織田家臣となった。その際に氏郷は人質として織田信長へ差し出された。信長の人質となった氏郷だったが、信長に気にいられ信長の娘を正室に迎え以後も信長のもとで功績を残した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え各地で活躍し、陸奥会津92万石を領した。一流の茶人としても知られ利休七哲にも数えられた。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。

基本情報

誕 生1556年
没 年1595年(40歳 病死)
墓 所大徳寺黄梅院(京都市北区)
興徳寺(福島県会津若松市)
幼 名鶴千代
通 称忠三郎、飛騨守、琉球守、松ヶ島侍従、松坂少将
戒 名昌林院殿高岩宗忠大居士
霊 名レオン(レオ)
官 位従四位下侍従、正四位下左近衛少将、従三位参議
氏 族蒲生氏
主 君織田信長豊臣秀吉
家族構成
蒲生賢秀
後藤賢豊の娘
正室相応院(織田信長次女)
兄弟 蒲生氏郷、女子(関一政室)、女子(田丸直昌室)、女子(小倉行春の正室)、三条殿(豊臣秀吉の側室)
籍(前田利政の正室)、武姫(源秀院、南部利直の正室)、氏俊、秀行
養子 三の丸殿(豊臣秀吉側室)

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略 歴

1556年 1歳  蒲生賢秀の子として誕生
1569年 14歳  大河内の戦いで初陣を飾る
1570年 15歳  柴田勝家の与力として姉川の戦いに参陣
1571年 16歳  第一次伊勢長嶋攻め
1573年 18歳  六角家の鯰江城攻めに参陣
1575年 20歳  長篠の戦いに参陣
1578年 23歳  有岡城の戦い
1581年 26歳  第二次天正伊賀の乱
1582年 27歳  本能寺の変
豊臣秀吉に従う
1583年 28歳  賤ヶ岳の戦いが始まると北伊勢攻略に参陣
1584年 29歳  小牧・長久手の戦いで参陣
伊勢松ヶ島12万石に加増・転封
1585年 30歳  キリシタンの洗礼を受ける
の紀州征伐、富山の役に参陣
1586年 31歳  従四位下・侍従に任じられる
1587年 32歳  九州征伐
1588年 33歳  松坂城を築城
豊臣姓(本姓)を下賜される
1590年 35歳  小田原征伐に参陣
奥州仕置
伊勢より陸奥国会津に移封され91万石
黒川城を改築し若松城(鶴ヶ城)と改める
1591年 36歳  葛西大崎一揆、九戸政実の乱に参陣
1592年 37歳  文禄の役では、肥前名護屋城へと参陣している
1593年 38歳  病気になり会津に帰国
1595年 40歳  伏見の蒲生屋敷にて病死

蒲生氏とは

蒲生氏は中世以降藤原北家秀郷流を称し、近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、室町時代に守護大名となった六角氏に客将として仕えた一族。賢秀の血筋はは元々蒲生氏の分家だったが、父・定秀が本家を倒し宗家となった。

織田家臣

氏郷は近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として誕生した。
1568年、主家である六角家が信長上洛軍に破れ没落すると、賢秀は氏郷を人質に差し出して織田信長に降伏し家臣となった。
信長は人質となった氏郷を気に入り自身の次女・相応院を娶らせ氏郷の元服の際には信長自身が烏帽子親を務めるなど息子同様に可愛がったという。

14歳の時に南伊勢大河内城の戦い(織田VS北畠)で初陣を飾るとその後は父・賢秀と共に柴田勝家の与力となり、朝倉氏を攻め、や姉川の戦い、伊勢長島攻めなどで活躍などに従軍して、武功を挙げている。

豊臣家臣

1582年、本能寺の変によって信長が没すると、氏郷は安土城にいた父・賢秀と共に、城内にいた信長の一族を保護し、自身の居城・日野城(中野城)へ逃げ込み、明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。戦後、亀山城を与えられるが、自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた[20]。 光秀軍は日野城を攻略しようとしたが、中国大返しによって戻ってきた豊臣秀吉に山崎の戦いで敗れ敗死したため氏郷は窮地を得た。その後、氏郷は父・賢秀より家督を相続し清州会議で優位にたった豊臣秀吉に仕えることとなった。

1583年、「賤ヶ岳の戦い」が勃発すると。氏郷は羽柴秀長のもと滝川一益の北伊勢の攻略を任された。戦後、北伊勢の亀山城を与えられた。その翌年に起きた「小牧・長久手の戦い」では滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、戸木城、5月に加賀野井城を攻めで戦功を挙げ、戦後、伊勢松ヶ島12万石に加増・転封となった。
1585年には「紀州征伐」や「富山の役」にも参戦。大坂でオルガンティノから洗礼を受けレオンの霊名を称した。また賦秀から氏郷(うじさと)と名乗りを改めている。九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せた。

内政面では伊勢国飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。寺院を町の外側に置き、町筋を直線ではなく角を要所に造って一度に多くの敵兵が攻め込めないようにし、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。方広寺大仏殿(京の大仏)の石組工事では、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江国大津の三井寺の上から切り出して、重臣達が笛や太鼓で拍子を取って京都まで運んだ。その石は、諸大名が運んだものの中で最大であったという。そのほかに、領内で検地を行い、織田信雄時代に残されていた貫高制から石高制に統一した。

1590年、小田原征伐に参陣後、氏郷は奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるため伊勢より陸奥国会津に移封され91万石の大領を与えられた(会津40万石、中通り20万石弱、置賜・信達30万石、白石1万石余。越後小川荘10万石は豊臣蔵入地)。
また、黒川城を蒲生群流の縄張りによる城へと改築し若松城(鶴ヶ城)と名づけ築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた。

その後は、伊達政宗と度々対立しながらも、1591年の葛西大崎一揆、九戸政実の乱、を制圧するための遠征を行った。
1592年、朝鮮出兵(文禄の役)の際に、肥前名護屋城へと参陣したが、この陣中にて体調を崩した。氏郷は会津に一時帰国するが病状が悪化し、養生のために上洛しするが、病状がかなり悪く誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。 しかし、病状の回復はなく1595年伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。

蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された。

氏郷の政策

改宗を進めた

氏郷は会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったとされる。

領地分配

与力大名や重臣に多くの所領を与え、自身の蔵入地を少なくしたことで、重臣たちが大きな力を持つようになり、氏郷没後に重臣間の権力争いを生じさせたという指摘もある。

商業政策

氏郷は農業政策より商業政策を重視し、旧領の日野・松阪の商人を若松に招聘し、定期市の開設、楽市・楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

人物・逸話

側室はおかなかった
茶人

茶湯に深い理解があり、千利休に師事し、利休七哲の筆頭といわれており、利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と評された.
ゆかりの茶道具としては、利休から拝領したという赤楽早船(畠山記念館蔵)、氏郷自作の竹花生(根津美術館蔵)、同じく自作の茶杓が3点(東京国立博物館[57]、野村美術館[注釈 8]、本居宣長記念館各蔵)などがある。

小牧長久手の戦い

小牧長久手に戦いの一環である菅瀬合戦では氏郷は敵の侵入を知らせる銃声を聞き、軍勢も揃えず松ヶ島城外に打って出た。敵の木造氏は氏郷の行動を熟知しており、鉄砲で狙撃したため、鯰尾兜に弾丸が三つも当たったという

小田原征伐

1590年、小田原征伐が始まると氏郷は、討死を覚悟して肖像画を残して出陣した。韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加。包囲中、7月2日の夜に敵将の太田氏房から夜襲を受ける。この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り、たった一人、乱戦の中で槍を抱えて敵の背後に回り、敵兵を次々と討ったという。

若松・鶴ヶ島城の由来

若松…出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。
鶴ヶ城…蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。

厳格な性格

日野から伊勢松ヶ島に転封になる時、武勇に優れ、氏郷に可愛がられていた福満治郎兵衛という武士の馬の沓が外れた。福満は隊列を離れ、馬沓を直した。氏郷は勝手に隊列を離れた行為は軍紀違反として福満を斬るよう命令し、斬らせた。

小田原へ出陣する時、部下に自身の鯰尾兜を持たせ、見回りに行った。氏郷は部下が指図の位置から離れていたので所定の位置にいるよう注意した。帰りに見るとまた別の場所に位置を変えていたので、その部下を手討ちにしたという

1万石の約束で召し抱えた橋本惣兵衛という家臣が酒宴の時、「自分は子を多くもっておる。10万石をくれるとあらば、1人くらい川に捨てても構わぬ」と豪語した。この発言を耳にした氏郷は激怒し、彼を呼び出し、「そのような事をぬかす者は人の道から外れている。貴様の給与は1000石に減らしてくれる!」と言い、彼の取り分を1000石に減らしたという。