秀吉の姉・日秀尼の夫で豊臣秀次の父
三好 吉房
概 要
尾張国に生まれ馬貸しをしていた百姓。豊臣秀吉の姉・日秀尼と結婚したことにより秀吉の馬牽として士分に取り立てられた。
嫡男・秀次が三好康長に養子入りすると自身も三好姓を名乗った。その後、秀次が100万石の大大名となると清洲城主を任された。
しかし、秀次切腹事件が勃発すると吉房もこれに連座し所領をすべて没収され讃岐国で軟禁された。
ポイント
- 尾張の百姓ので
- 豊臣秀吉の姉・日秀尼と結婚し豊臣秀次の父となる
- 秀次が失脚するとこれに連座し讃岐国に軟禁される
- 秀吉の死後に罪を許され法華経の行者となり下野足利で死去する
誕生・死没
- 誕生:1534年
- 死没:1612年
- 享年:79歳
墓所
- 本圀寺の妙恵会総墓所(京都市下京区堀川松原下る)
名 前
- 遍歴:弥助 → 木下弥助 → 三好吉房 → 三好一路
- 別名:木下弥助、長尾武蔵守吉房、三好武蔵守、三好一路、一路法印常閑、犬山殿
- 法名:日海
- 入道号:一路常閑
- 戒名: 建性院殿三位法印日海大居士
官 位
- 武蔵守、三位法印
主 君
同い年の人物
略 歴
| 1534年 | 1歳 | 誕 生 |
| 1568年 | 35歳 | 秀次誕生 |
| 1582年 | 49歳 | 本能寺の変 |
| 1590年 | 57歳 | 清洲城主となる |
| 1595年 | 62歳 | 秀次事件が勃発し秀次が切腹する 秀次の罪に連座し所領を全て没収され讃岐国に軟禁される |
| 1598年 | 65歳 | 秀吉が死去し罪が許され京都に戻る |
| 1600年 | 67歳 | 本圀寺に一音院を建立し、子供たち、孫たちの菩提を弔う |
| 1612年 | 79歳 | 法華の行者となり下野足利で死去 |
出 自
吉房の出自については詳しいことは分かっていない。
通説では、尾張国海東郡乙子村の出身といい馬貸しを行っていた百姓とされている。
その後、豊臣秀吉の姉・日秀尼と結婚し、秀吉の馬の牽引係として士分に取り立てられた。
秀吉の家臣として
嫡男・秀次が三好家に養子入りする
1568年、嫡男・豊臣秀次が誕生すると、秀次は宮部継順に養子入りしたのちに阿波三好家の一族・三好康長の養子となった。
この時、吉房も三好姓を称し、吉房の妹も三好一族の大島親嵩に養子入りした。
秀次の家老として
小田原征伐後、秀次が改易された織田信雄の旧領尾張・伊勢北部5郡を与えられて大大名となると、吉房もその配下で尾張犬山城10万石を領し、1591年には尾張清洲城主となり、犬山城主は次男・豊臣秀勝が務めた。
しかし、吉房の実務能力は秀吉、秀長さらに秀次よりも劣っていたという。
晩年
秀次の罪に連座し讃岐国へ軟禁される
1592年に次男・秀勝が巨済島で戦没し、1595年には三男・秀保が病死。さらに同じ年に嫡男・秀次が謀反の疑いをかけられ秀吉に切腹を命じられ自刀し息子を3人失った吉房も秀次の罪に連座し、所領をすべて没収されて四国の讃岐国に流され、軟禁された。
法華の行者となり諸国を放浪
1598年、秀吉が病死すると吉房の罪も許され京都に戻り本圀寺に一音院を建立し、子供たち、孫たちの菩提を弔い、晩年は法華の行者となった。
そして1612年に関東下野国足利で死去した享年79であった。
生まれた身分が最も低い皇室の先祖
吉房は秀吉(太閤)の義兄、関白の父というだけでなく、九条家に嫁いだ豊臣完子(次男・秀勝の娘)の祖父であり、大正天皇の皇后である貞明皇后はその末孫にあたる。つまり弥助は、昭和天皇の先祖の1人でもあり、系図を辿って示すことができる人物の中では、 生まれた身分が最も低い皇室の先祖であるということができる。