結城家17代当主北条・上杉両家の間で同盟を繰り返した

結城 晴朝ゆうき はるとも

結城晴朝

結城晴朝

  ポイント

  • 小山高朝の三男。伯父・政勝の養子となり結城家を継ぐ
  • 北条・上杉両家の間で同盟を繰り返した
  • 小田原征伐に参陣し所領を安堵する
  • 徳川家康の三男・秀康を養子に迎える

誕生・死没

  • 誕生:1534年
  • 死没:1614年
  • 享年:80歳

同年代の人物

名 前

  • 七 郎(幼名)

所 属

官職・役職

  • 官位: 従五位下左衛門督、中務大輔

墓 所

  • 福井県福井市の孝顕寺

親 族

略 歴

1534年 1歳  小山高朝の三男として誕生
1556年 23歳  海老島合戦に参加し小田城を攻める
1559頃 26歳  伯父・結城政勝が死没
結城氏へ養子に入り家督を継ぐ
1560年 27歳  佐竹、宇都宮、小田の連合軍を撃退
上杉謙信の関東侵攻に伴い北条側から反北条へ転じる
1570年 37歳  平塚原の戦いで小田氏治と激突
1576年 43歳  実兄の小山秀綱が北条家に降伏
宇都宮広綱の次男を養子に迎える
佐竹、宇都宮と連合を組み北条家の攻撃をしのぐ
1590年 57歳  小田原征伐に参陣して所領を安堵された
徳川家康の三男・秀康を養子として迎える
隠居し家督を秀康に譲る
1604年 71歳  越前へ転封
1604年 80歳  越前北ノ庄または中久喜城にて死去。

概 要

結城家17代当主。小山高朝の三男で伯父の結城政勝の養子となる。
上杉謙信の関東攻めの際は北条・上杉両家の間で生き残りを模索するし、その後、佐竹・宇都宮と連携して北条氏に対抗する
小田原征伐に参陣し所領を安堵され、秀吉に願って秀吉の養子・秀康(徳川家康の次男)を養子とし、家督を譲った

出生と結城家相続

1534年8月11日、小山高朝の三男として誕生。
元服に際し4代古河公方・足利晴氏の偏諱を受けて晴朝と名乗る。 1556年、小田氏との海老島合戦に参加し小田城を攻める。1559年8月に伯父・結城政勝が死去すると、政勝に嫡男が居なかったため(嫡男・明朝が既に没していた)結城家の家督を継承する。
この時、晴朝は養父・政勝に迫られて、実父・小山高朝との親子の縁を切るという文を作成して古河公方の使者(実質は北条氏の名代)である瑞雲院周興に提出したとされている(「乗国寺文書」小山高朝書状)。

反北条として

当初、晴朝は伯父・政勝の路線を引き継ぎ古河公方の足利義氏(晴氏の子)及び後北条氏に加担していた。
そのため、たびたび佐竹氏や下野宇都宮氏、小田氏が協力し大軍で攻めてきた。晴朝はこれを結城城に籠もって撃退していた。
その後、佐竹氏の要請で、越後国の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領・上杉憲政を奉じて遠征するが、景虎が関東管領に就任すると反北条に転じる。佐竹、宇都宮家らと和議を結んだ。

実家・小山家との争い

1570年、小田領へ攻め入り、平塚原の戦いで小田氏治と激突したりと、政勝の路線を継承して、結城氏の再興・拡大をしていた。
しかし、結城氏と同様に北条氏と上杉氏との間で生き残りを模索する実家の小山氏との対立は避けることは出来ず(小山氏は北条方となった)、実父・小山高朝ともたびたび交戦した。
 1573年に父・高朝が死去した際にも、敵である結城氏の当主として駆けつけることが出来ない事情を結城氏の菩提寺で高朝とも親交があった乗国寺の住職に伝えて代わりに焼香に行かせている。

生き残りをかけた製作

1576年、兄・小山秀綱が北条氏照に降伏すると、1577年に北条氏に攻め込まれた。
 この時、嗣子の無い晴朝は宇都宮広綱の次男・朝勝を養子として迎え、自身の妹を佐竹義重(朝勝の母の兄)の傘下である江戸重通に嫁がせる。
 さらには那須資胤が娘を佐竹義重の嫡男・徳寿丸(後の佐竹義宣)に嫁がせるなど、婚姻関係を通じて周辺領主と連合することで、北条氏の攻撃をしのいでいる。

所領安堵

1590年に豊臣秀吉による小田原征伐が発足するとこれに参陣して所領を安堵された。
 晴朝は秀吉に臣従した頃より秀吉との結びつきを求めて豊臣家との養子縁組を願い出ており、秀吉が養子としていた徳川家康の次男・秀康に養女・鶴子を嫁がせて養嗣子として迎え、秀康に家督を譲ると隠居する。

関が原合戦後

関ヶ原の戦いの後、秀康が1604年に越前国へ転封となると、晴朝もこれに従う。
ところが、この頃より秀康及びその周辺で徳川氏への復帰が図られるようになり、1607年に秀康が死去すると、跡を継いだ秀康の嫡男・忠直は松平姓を称するようになる。
実父(小山高朝)や養子(結城朝勝)との縁を切ってまで守り抜こうとしていた鎌倉時代以来の結城の所領と家名があっさりと捨てられる事態に晴朝は衝撃を受け、徳川家康に懇願して秀康の五男・直基を養育し、結城家を継承せしめた。
また、旧領結城への帰還を願いながら、一族の家系図・過去帳・家伝などを編纂して、結城にある結城氏ゆかりの寺社などに納めるようになる。 そうした中、1614年7月20日に越前北ノ庄または中久喜城にて死没した。