ポイント
- 義理の兄を追放し関東管領職(15代)となる
- 北条氏と関東の覇を争うが破れ越後に逃亡後、長尾景虎に上杉姓と関東管領職を譲る
- 謙信の死後、御館の乱で景勝に殺される
誕生・死没
- 誕生:1523年
- 死没:1579年
- 享年:57歳
名 前
- 憲政→憲當(憲当)→光徹(法名)
- 五郎(通称)、成悦(通称)、光哲(通称)
官位・幕職
- 兵部少輔
- 関東管領
所 属
略 歴
1523年 | 0歳 | 上杉憲房の子として生まれる |
1525年 | 3歳 | 父・上杉憲房が死没 義兄・上杉憲寛(足利晴直)が家督を継ぐ |
1531年 | 10歳 | 上杉憲寛を追放し山内上杉家の家督を継いで関東管領とる |
1541年 | 20歳 | 信濃佐久郡に出兵し武田氏と戦う |
1546年 | 25歳 | 河越夜戦で北条氏に敗れる 「憲当」と改名 |
1547年 | 26歳 | 佐久郡小田井原の戦いで武田信玄に大敗する |
1552年 | 31歳 | 武蔵の最前線城・御嶽城が北条氏によって落城 憲政が平井城から撤退し越後国へ入国する(平井城落城)※憲政の越後入国については異説あり。 |
1560年 | 36歳 | 憲政の名代として長尾景虎(上杉謙信)が関東出兵 |
1561年 | 37歳 | 鎌倉鶴岡八幡宮にて長尾景虎(のちの上杉謙信)に関東管領職と上杉姓を譲渡する 隠居し剃髪し、「光徹」と号す |
1578年 | 56歳 | 謙信が死没 上杉景虎と景勝との間で家督をめぐる争い(御館の乱)が勃発 |
1579年 | 57歳 | 御館の乱に巻き込まれ上杉景勝によって暗殺される |
概 要
山内上杉家15代当主で事実上最後の当主。義兄を追放し関東管領となるが、河越夜戦で北条氏に破れ越後に逃亡、その後、長尾景虎に上杉姓と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督争い「御館の乱」で上杉景勝に殺された。
家督相続
1523年、上杉憲房の子として生まれる。
1525年に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である上杉憲寛(古河公方・足利高基の子、初名:足利晴直)が家督を継いで当主となった。
1529年、古河公方内にて足利高基とその息子・晴氏の家督争いが勃発する。
この争いに伴い、山内上杉家内でも高基を支援する上杉憲寛派と晴氏を支援する憲政の争いが勃発した。(享禄の内乱)。
足利高基・上杉憲寛
VS
足利晴氏・上杉政憲
1531年、享禄の内乱の結果、上杉家の先代である憲房の実子・憲政を擁立する成田氏・安中氏・藤田氏・小幡氏などの勢力が、対立していた憲寛方の長野氏らに勝利し、憲政が山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。
ちなみに同年中に古河公方家内部対立も決着がついた。
武田家との争い
1541年、信濃・甲斐国の武田・村上・諏訪家の連合軍が憲政の上野国と隣接する信濃小県郡へ侵攻し、領主である海野棟綱を破った(海野平の戦い)。棟綱は上野へ逃れ、憲政に救援を求めた。
憲政はこの救援に応じ、箕輪城主・長野業政を総大将とし信濃佐久郡への出兵した(※この上杉軍には真田幸綱(幸隆)らも参陣していたと思われる)。
しかし、諏訪郡の諏訪頼重は盟約関係にある武田氏・村上氏らに無断で長野業政と和睦し、佐久郡は山内上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになった。
その後、武田家は勢力を後退したが、武田晴信(後の信玄)が家督を継ぐと武田家は盟約違反を起こした諏訪家を攻略しさらに、山内家の佐久郡を奪還した。
北条氏との争い
北条包囲網
憲政が家督を継いだ時の山内上杉家は扇谷上杉家と長年にわたり抗争を続けて続けていた。
この頃関東の西では、伊豆国・相模国の後北条氏が武蔵国へ進出し急速に勢力を拡大していった。
北条氏の勢いに危機感を感じた憲政は扇谷上杉家の上杉朝定と手を結び、さらには古河公方・足利晴氏と駿河の今川義元とも和睦し、北条包囲網を形成した。
河越夜戦
1545年、義元の挙兵で北条氏康が駿河へ出陣した隙に、古河公方・晴氏と扇谷朝定と共に北条綱成が守る河越城(かつての扇谷家の城。)を総勢8万余の大軍で包囲した。
しかし、北条綱成の奮闘と北条氏康の頭脳を使った夜襲もあり、この戦いは北条軍の勝利に終わり憲政ら連合軍は大敗は喫した。これが戦国3大野戦のひとつ河越夜戦である。
平井城落城
河越夜戦での歴史的な大敗を喫した憲政は「憲当」と改名して勢力の立て直しを図ったが、忍城の成田氏に続き、代々の山内上杉家家臣も離反、周辺諸国も北条家へ降伏してしまう。
1552年、河越夜戦から7年後、武蔵の最前線城・御嶽城(足利長尾氏寄子・安保氏の城。)が落城して平井城が北条軍の脅威にさらされると、憲政は居城・平井城から退却せざる得なくなり、平井城は落城。憲政は山内上杉家家宰・足利長尾氏や横瀬氏を頼ろうとするが、既に北条氏の手にかかっており、越後国の長尾景虎(上杉謙信)の許に逃れていった。
関東管領職の譲渡
長尾景虎の許に亡命した憲政は1560年、旧臣・足利長尾氏と安房国の里見義堯の要請もあって、憲政は景虎と共に関東へ進攻した。
北条氏から北条康元が入っていた沼田城をまず落とし沼田氏を復権させると、これを見た白井長尾氏・総社長尾氏・箕輪長野氏はすぐさま上杉軍に呼応し参陣した。
1561年「小田原攻め」の最中、鎌倉鶴岡八幡宮において長尾景虎に関東管領職を譲渡した。
このとき、景虎に「上杉」の氏と自身の偏諱(憲政の「政」)をあげ上杉政虎と名乗らせ、山内上杉家の家督の正式な後継者とすると共に、同家系図、伝来の重宝を譲渡した。
政虎に上杉姓を譲渡後は隠居して剃髪し、光徹と名乗った。以後は謙信が関東経営に携わり、憲政の関与は史料上に見えなくなっている。
最 後
1578年に謙信が死去すると、養子の上杉景虎と景勝との間で家督をめぐる争い(御館の乱)が勃発する。
憲政は景虎を支持したとされる。(断定はできない)
当初は拮抗していた争いも、越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝が有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされた。
1579年、憲政は景虎の嫡男・道満丸と共に和睦の交渉のため、春日山城の景勝の許に向かったが、2人は景勝方の武士によって陣所で討たれた。享年57歳だった。一説には四ツ屋付近で包囲され、自刃したとも云われる。
墓は景勝が転封された米沢の照陽寺にある。
逸 話
北条家に一度も勝てなかった
憲政は生涯、北条氏康と何度も戦い一度も勝てなかった。これは北条を軽輩と見下して、配下に任せて自身は出陣しなかったためだと批判されている。
もしかしたら佐竹家が関東管領に?
関東を追われた憲政は、長尾家より前に旧領回復を条件に常陸国の佐竹義昭に関東管領職と上杉姓を継ぐように要請したが、管領職だけならと言われて、上杉姓が絶えるのを惜しみ諦めたという。
越後入国の時期
通説では憲政が越後に入国した時期は1552年平井城が落ち、そのまま越後に向かったとされているが、越後入国時期については諸説ある。
一つは弘治3年(1557年)、もう一つは永禄元年(1558年)である。このうち永禄元年説が有力とされる。
1552~1557年の間、憲政は平井城落城後は、上野中部・北部(みなかみ町方面)に移り、北条氏と対抗していたとされる。