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葛西家の分家だが宗家に対して反乱を起こす
浜田 広綱
ポイント
- 葛西家の分家出身
- 宗家に対し反乱を起こすが敗れる
誕生・死没
同年代の人物
官職・役職
- 不 明
親 族
- 父 : 浜田宗綱
- 子 : 江刺重俊
- 子 : 江刺信雄
- 子 : 浜田信綱
略 歴
1523年 | 1歳 | 浜田宗綱の嫡男として生まれる | 1586年 | 64歳 | 歌津合戦で本吉重継を撃破する | 1587年 | 65歳 | 宿敵赤岩城主・熊谷直義と戦う |
1588年 | 66歳 | 所領減となりこれを不服として宗家に対し反乱を起こす(浜田兵乱)が敗北する。 |
1590年 | 68歳 | 葛西大崎一揆に加担 |
1592年 | 69歳 | 死 没 |
概 要
葛西氏の分家。東館城・米ヶ崎城主。1588年。気仙沼の熊谷党と争い「浜田兵乱」と呼ばれる戦を起こす。このとき、葛西宗家の戦後処理で所領を減らされたことに不満を覚え、米ヶ崎城を整備して宗家に抵抗したが、敗北した。
誕生と家督相続
葛西氏の分家。東館城・米ヶ崎城主の浜田宗綱の嫡男として誕生する。
浜田兵乱
家督を継いでしばらくした、1586年に歌津合戦で本吉重継を撃破し併合した。さらに勢力拡大を目指し宿敵・赤岩城主・熊谷直義と争う。しかし、主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、さらに、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦する。
1588年、主君の葛西家が浜田兵乱の戦後処理として浜田家の所領を減らす措置を施す。これに反発した広綱は及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北、所領を失った。
その後
浜田兵乱の後は三男・信綱が浜田家を引き継いだが、奥州仕置で改易され、葛西大崎一揆に加担するが、伊達政宗により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁した。
文禄元年(1592年)、死去。享年70。