黒川 晴氏くろかわ はるうじ

鶴楯城

鶴楯城

  ポイント

  • 大崎家の一族
  • 陸奥国黒川郡鶴楯城主
  • 大崎合戦で伊達氏を裏切る

誕生・死没

  • 誕生:1523年
  • 死没:1599年
  • 享年:77歳

同年代の人物

名 前

  • 彦五郎(通称)
  • 月舟斎(号)

所 属

官職・役職

  • 官位: 左馬頭、安芸守

親 族

  •  父 : 黒川稙国
  •  母 : 含笑院殿(いぬゐ・織田良頼の娘)
  • 正室 : 大崎義兼の娘
  • 兄弟 : 黒川種家(兄)
  •  子 : 竹乙(留守政景)の正室
  •  子 : 義康大崎義直の子(養子)

略 歴

1523年 1歳  陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の子として生まれる
1568年 46歳  兄・稙家が死去し家督を継ぐ(9代当主)
1588年 66歳  伊達家から離反し大崎家につく
1590年 68歳  小田原征伐に参陣しなかったため領地を没収
1599年 77歳  死 没

概 要

陸奥黒川郡鶴楯城主。黒川氏は大崎氏の一族であったが、晴氏の頃には伊達氏との関係も深かった。しかし1588年、伊達氏と大崎氏が争うと(大崎合戦) 晴氏は大崎義隆に加担し奮戦した。後に豊臣秀吉に所領を募集され1599年に病没している。

誕生と家督相続

1523年、陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の子として生まれる。
将軍・足利義晴より偏諱を拝領して「晴氏」と名乗り、1568年に兄の第8代当主・稙家が死去すると家督を相続して黒川氏第9代当主となった。

黒川氏とは

元々、黒川氏は斯波一門・最上氏の分家にあたり、奥州探題大崎氏(最上氏の本家)の一族であったが、伊達稙宗が勢力を拡大すると、伊達一門の飯坂家から養子を迎え(第6代当主・景氏。晴氏の祖父)、さらに稙宗が大崎氏を実質的に従属させたことで、晴氏の代には黒川氏は半ば独立した地位を保ちつつも、大崎・伊達氏に両属する状態にあった。

晴氏は娘を伊達晴宗の三男・留守政景に嫁がせ、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子・義康を養嗣子とし、義康の正室には晴宗の弟・亘理元宗の娘を迎えた。これらの縁組は、当時の黒川氏が置かれていた状況をよく反映している。

婚姻関係

上記のことから、晴氏の婚姻関係は少々複雑である。
娘を伊達晴宗の三男・留守政景に嫁がせ、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子・義康を養嗣子とし、義康の正室には晴宗の弟・亘理元宗の娘を迎えていた。

伊達氏離れ

晴氏は智勇兼備の将として名高く、伊達氏の傘下にあって活躍したが、伊達政宗が家督を継ぐと、政宗は父・輝宗の外交方針と逆の外交を行い、上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めた。黒川氏は最上氏の分家にあたため、伊達家との関係が微妙な関係になった。

大崎合戦

1588年2月に政宗が大崎義隆(義康実兄・義光義兄)を攻めるちと、婿である留守政景の援軍として桑折城に入っていた晴氏は遂に伊達氏からの離反を決め、中新田城攻略に失敗した伊達軍を強襲して撃破した(大崎合戦)。

晴氏はさらに潰走した伊達軍の籠もる新沼城を包囲したが、黒川・伊達に挟まれ微妙になった政景を救うために和睦を行い、泉田重光・長江勝景を人質として提出させることを条件にして城の囲みを解いた。

所領没収

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が起こると黒川氏は秀吉の命に反しこれに参陣しなかった。そのため秀吉によって改易させられ領地を没収された。

その後黒川領の支配を認められた政宗は、大崎合戦の恨みを晴らすため晴氏を殺そうとしたが、政景の取りなしによって助命された。

最 期

所領を失った晴氏は婿である留守政景の庇護下で余生を過ごし。1599年に死去した。
※1609年説もある。