信直・利直の側近として南部家の内政、外交を仕切った重臣

北 信愛きたのぶちか

北信愛

写真左(右は南部利直)

  ポイント

  • 政治、外交、武力全てを兼ね備えた名将
  • 晴継の烏帽子親であり、信直の側近
  • 晩年は花巻城の城代を勤めた

生誕・死没

  • 生誕:1523年
  • 死没:1613年
  • 享年:91歳

同年の人物

名 前

  • 剣吉彦太郎(通称)
  • 松斎(法名)

官職・役職

  • 左衛門佐
  • 尾張守

親 族

  • 父親:北致愛
  • 母親:?
  • 正室:南氏の娘
  • 妹:桜庭光康の正室
  • 子:愛一
  • 子:秀愛
  • 子:直継
  • 子:愛邦
  • 子:種市愛久
  • 子:信景(桜庭光康の子)

略 歴

1523年…北政愛の嫡男として誕生。
1540年…父・致愛が隠居したため、家督を継ぐ
1571年…「屋裏の変」が勃発。「南部信直」を保護し、南部晴政と対立する。
1577年…晴継の烏帽子親となる。
1582年…晴継が死去し、家督問題が勃発すると「南部信直」に尽力する。
1587年…加賀の前田利家を訪ね鷹を献上し、豊臣秀吉に臣従の意思を伝える。
1591年…「九戸政実の乱」勃発。上洛し豊臣秀吉に援軍を要請する。
1598年…花巻城代である次男・秀愛が死去。代わりに花巻城代に就任する。
1599年…主君「信直」が亡くなると、隠居しようとしたが、「利直」に引き留められる。剃髪して「松斎」と名乗る
1600年…「関ヶ原の戦い」では、花巻城を守備し、わずか数十人で数百人の一揆勢を退ける。(花巻城の夜討)

概 要

南部家の重臣。晴政亡き後は、南部信直を支持し、右腕として南部家の外交・内政を仕切っていた。
関が原合戦の際に起きた、花巻合戦では数十人の兵で数百人の敵を撃退したという。

晴政の時代

1523年、北致愛の嫡男として誕生。
その後、南部家の家督争い(屋裏の変)(晴政VS信直)では、田子信直(後の南部信直)を擁立し、南部晴政と対立した。
しかし、晴政の隠居すると、その子・晴継を補佐した。晴継元服時には、烏帽子親として加冠の儀を執り行っているという記録が残っている。

信直の時代

 晴継が暗殺され、再び家督争いが生じると信愛は信直の擁立に力を注いだ。
 信直が家督を継ぐと、信愛は信直の右腕となり内政・外交面で南部氏を取り仕切った。特に外交面では、加賀国の前田利家を訪ねて鷹を献上したり、豊臣秀吉に謁見し臣従する意思を示していると対中央政権との外交で力を発揮した。1591年の九戸政実の乱においても、上洛して秀吉に援軍を要請した。

利直の時代

 1599年、信直が死没すると信愛は隠居しようとするが、信直の後を継いだ利直はそれを許さず。なおも側近として重用された。それほど信愛は信頼されていたことになる。(その背景には八戸氏に対抗する人物がいなかった為とも言われている。)
 この頃に剃髪して「松斎」と号している。

花巻城の夜討

 1600年9月20日、北信愛がすでに77歳の頃。「関ヶ原の戦い」で東軍側に属していた南部家。
 信愛が守る花巻城は同じく東軍に属していた「伊達家」に面しており「関が原合戦」当時兵の守り多くありませんでした。(当主・南部利直の主力部隊は「慶長出羽合戦」に出陣していた。)
 しかし、豊臣秀吉の奥州仕置きによってこの地から追放されていた。和賀氏による一揆を起こし、400人もの軍勢で信愛の守る花巻城を攻めた。
 信愛はわずかな兵数であったが、領民等を兵力に加え、さらにその知略をもって一揆勢を翻弄し、城を守り切った。詳しくは「花巻城の夜討ち」

人物・逸話

戦に観音像

信心深い一面もあり合戦に臨む際は、必ず小さな観音像を髻(髪の束)の中に収めていたという。

花巻まつり

花巻まつりの起源はは、信愛が出陣に際して行った観音祭りが起源であると言われる。

「北松斎手控」

亡くなる前年に、自身の経歴や功績を詳細に記した「北松斎手控」という回顧録(記録や)を作成している。