【戦国武将達の心に刺さる名言と名句】 

膳

滝川一益

『我らが昼夜の心遣い察してみよ。汝らは鶴を羨まず、雀の楽しみを候え』

関東管領として厩橋城に住んでいた時のこと、一益は、鶴と雀を見つけ、しばらくそれらを眺めていた。
 鶴は四方を警戒しながら餌を食らい、仲間に対して一切油断をみせなかった。一方、植木の枝に群がっている雀は、人がいても平気で餌を食い、仲間同士で遊んでいるこの様子を見ながら一益はしみじみと家臣につぶやいた。
「あの鶴と雀を比べてみるとよい。さしずめ鶴は我ら大名だろう、わしは運よく大名となり、多くの領地と人民を我がものにしているが、一言いうにも考えて話し、物を食う時も毒味やらでやたらには食えず、夜には寝ずの番がつく。家臣、万民がわし一人を見守っているから、わずかの間も気楽に過ごすことはできない。お前たちは鶴を羨まず、雀の楽しみを味わうがよいぞ」その後数年、一益は大名を廃棄したという。

前田利家

『利久の不才なるは、諸君の知らる所なり。僕、今嫡嗣と偽るにより、諸君利久を謗り僕を美せらる。僕何ぞ其阿順(へつらう)を喜ばんや』

利家が32歳の時、既に前田家の家督を継いでいた兄・利久に変わり家督を継ぐよう信長に命じられた利家がその祝いの席で発した言葉。
 皆が利久をこきおろし、利家を褒めそやした自分が兄に変わり家督を継ぐことになった。利家は兄達と争うことを嫌い夫婦共に気配りを絶やさなかったという。

竹中半兵衛

『おのれが家敷の雨落ちを出るとき、はや敵なりて我を窺(うかが)ふと心得べし』

「一歩外へでれば、すでに敵が自分を狙っていると心得よ」と油断をするなとの教え。
半兵衛はそのほかにも教訓的な名言を多く残しており、屋内での刀の置き方でも、「他人の刀とともに一か所に置くと、急な時に取り違えてしまうから、他人の刀が横に置かれたら自分の刀は立てて置き、柄をそろえて置いたら向きを変えよ」と注意を促す言葉を残している。

黒田官兵衛

『君の御運開かせ給う始めぞ。能くさえ給え』

「殿の郷運が開かれるときです。うまくおやりなさい」本能寺の変の知らせを聞き動揺した秀吉に官兵衛が耳打ちしたひとこと。
官兵衛は秀吉配下の二兵衛と称された智将であるが、実は秀吉は官兵衛の智謀を非常に恐れていた。秀吉は「恐ろしき者は徳川と黒田である。徳川は温和な人であるが黒田はなんとも心を許し難い人物である」と語ったほど官兵衛を警戒していた。
この言葉を聴いた秀吉はこれまで以上に官兵衛を警戒するようになった。

徳川家康

『滅びる原因は自らの内にある』

宿敵である武田信玄が亡くなった時に言った一言。徳川家康は信玄という宿敵のお陰で我々が緊張し軍備を整え、良い政治をすることが出来た。家が恐ろしいのは身内にあると考えていた。

『余の知恵にあらず候、太閤問わずに語ればなりけり』

家康が大阪夏の陣で大阪城の外堀を埋めた際に言った一言。
意味は「この作戦に出たのは、大阪城を築城させた秀吉公自ら、”この城は正攻法では何年かかっても崩落しない”と仰せられていたからだ。そこで私は堀を埋める戦略を思いついただけのことよ」
つまり、私の知恵ではない。秀吉公が教えてくれた作戦なのだというわけだ。

家康は決して自分の能力を自慢したり、ひけらかすようなことがなかった。

『我天下を治むる事は、武田信玄と石田治部少輔両人の御蔭にてかようなりし』

自分が天下をとるチャンスにめぐまれたのは、甲斐の武田信玄と反徳川派の石田三成がいたからだ。家康らしい謙虚な言葉だ

長宗我部元親

『弓矢を執るの家、戦死を似て栄となす。悔い思ふべきにあらず』

元親は秀吉の九州征伐に参陣しこの戦いで嫡男・信親を失った。この言葉は弔問に訪れた秀吉の使者に答えたもので「武士の家では戦死することが名誉。悔やんではならない」と、まるで自分にいい聞かせるように語ったのである。