【戦国武将達の心に刺さる名言と名句】 

膳

伊達政宗

『物事小事より大事は発するものなり。油断すべからず』

この言葉は政宗の養生訓(健康、健康法)である。彼は少しの病でも大事をとって養生した。古今無双の英雄の細心さ、用意周到さは戦略、政治、外交にもよく現れている。

『我、目の玉を切り落としたるときの不覚は、生涯の不覚なり』

政宗は幼少の頃に疱瘡を患い、その膿が右目に入り失明していたまった。人々は彼を独眼流と呼んだが政宗にとっては生涯持ち続けたコンプレックスであった。
この言葉は、眼球を処置した際に気絶しそうになった時に放った言葉だという

加藤清正

『汝らはひとしく予が股肱腹心なり。使うところはその器に従うのみ』

この言葉の意味は「お前達は皆私の大切な家来だそれゆえ、わしはそれぞれの長所欠点を考えて適した働き場所を考えている」
 朝鮮出兵の際に清正が家臣に放った言葉である。ある日の事前線にいる一隊を引きあげさせるため、命令伝達と救護に誰かを派遣しなくてはならなかった。清正は部下達を見回して、その役を末座にいた庄林隼人に命じることにした。そして隼人は清正の期待通り無事任務を果たし、引き上げを成功させたのである。
 このとき側近の森本儀太夫が目に涙を浮かべていた、理由を尋ねると「殿のお側に私が控えているというのに、庄林に命じになったのが悔しいのです」それを聞いた清正は「もに相手が屈強で犠牲を覚悟で攻めねばならない場合だったら、わしは、お前に命じていただろう、しかし今度の場合はそうではない、適任者は庄林だと判断したまでのこと」といい上記の言葉を残した。

石田三成

『棒禄は君のため余さず遣うべし』

三成が近江左和山の城主になったときの事、島左近を1万5千石で召抱えたことにより石高がいくらも残っていない三成が側近に言った言葉「子は秀吉公の奉公人である。奉公人は主君より戴いた俸禄を有効に遣って、少しも残すべきでない。残す者は盗人、遣いすぎて借金するのもは愚か者である」と言い残した

『大義を思ふものはたとえ首を刎らるる期迄も命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふ』

関が原合戦に敗れた三成が六条河原の処刑場に引かれていく途中、三成は警護の物に湯が飲みたいと願いでた。しかし、湯がなかったため,その代りに干し柿を手渡すと「それは痰の毒になるからいらない」と断った「これから首を刎ねられる者が毒断ちをするとはおかしな話よ」警護の者がこういって笑うと三成は「汝らにはわかるまい。大義を思うものは、首を刎ねられる最期の瞬間まで命を大事にして、なんとか本意を達しようと思うものだ」三成は死の寸前まで、家康打倒の夢を捨てようとしなかった。

塙団右衛門直之

『牢人には、悪事災難こそ立身の道』

塙団右衛門直之は伊予国松前城主・加藤嘉明の家臣だったが、関が原の戦いのとき、軍令に背いたことが原因で京都の妙心寺の僧となった。しかし、どうしても武士への思いを断ち切ることができず、常陸国(茨城)水戸の肥田志摩を頼って関東に下ったていた。

肥田家の若い家臣たちと一緒に愛宕神社に参ったときのこと。若者に参拝の目的を尋ねると「武運長久、悪事や災難なく、宿願の達成を祈願します」といった。しかし、直之の願いは違った「わしは牢人だから畳の上の奉公では立身はできに。悪事災難、珍事に引き合わせてくだされ、南無帰命頂礼、諸願成就と願い参るのだ」と言った。

真田幸村

『一旦の約束の重きことを存じて較ぶれば、信濃一国は申すに及ばず、日本国を半分賜はるともひるがえしがたし』

大阪冬の陣のあと、徳川家康が幸村を信濃十万石を代償として勧誘した際に幸村が言った言葉。
「信濃国はおろか日本の半分をいただこうとも、豊臣方と約束したした以上考えはかわりません」と断ったという。