【戦国時代のこぼれ話!武将達の逸話まとめ】 

膳

 豊臣秀吉

清州城の修復

秀吉がまだ信長の家臣だったころ、秀吉は難航していた清洲城の石垣修理を任された。
秀吉は部下を数組に分け、早く作業を終えた組に褒美を与えると、部下の競争心をあおり予定よりも早く石垣の修理を終わらせた。

妻・ねねとの馴れ初め

秀吉とねねの出会いは桶狭間の戦いの後で、戦いのあとにおねの家を尋ねた秀吉がおねを一目みて好きになったと言われている。
それに対しておねは秀吉の事を小汚いと警戒していたという。
秀吉は何度もおねにアタックし2人は無事両想いになった。しかし、ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねの養子先の浅野家の人々や秀吉の仲間たちが両親を説得しねねは結婚を許されたという。

箸の話し

新年を祝う宴で、信長の御膳に箸が1本しか置かれていなかった。秀吉は「片箸で膳を食べる、これは殿がかたっぱしから敵を食らう意味で縁起がいい」と言って信長の怒りを鎮めた

征夷大将軍

関白になった秀吉だったが、征夷大将軍の座を狙い室町幕府の将軍・足利義昭に養子にしてほしいと頼んだといわれている。
しかし、義昭はこれを断り秀吉の征夷大将軍の夢は叶わなかった。

折り紙付きの由来

秀吉は趣味として刀剣を集めており、刀狩りの際には秀吉のもとへ多くの刀が集められた。
その際に、秀吉は家臣に命じて集めた刀について1本ずつ形や特徴を記録させより品物には「折り紙」と呼ばれる保証書を発行し以後、素晴らしい品物には「おり紙付き」と言われた。

 山県昌景

いつも初陣の気持ち

信玄の異母弟・一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたという

武芸四門

昌景は最初に習うのは「馬」であり、その次に「兵法」、三番目に「弓」、四番目に「鉄砲」と説いている。
馬を最初に習うのは戦場ではどのような手馴れでも自分の馬に乗らない。必ず自分自身で乗るものだからと言っている

 馬場信房

敵を見分ける

武田の若い武将に信房は五つの心掛けについて語っている。

  • 敵よりも味方が勇んで見える日は先を争って働くべきである。
  • 優れた味方の武将と親しくし、その人を手本にしてその人に劣らぬよう心掛けて働くこと。
  • 敵の兜の吹き返し(兜が顔の右左で外へ折れ返っている部分)がうつむいて指物(背中に指した標識)が動かないのは強靭な敵である。吹き返しが上を向いて指物が動いているのは弱い敵である。弱い敵を選んで槍を突くべきである
  • 槍の矛先が上がっているのは弱い敵。矛先が下がっているのは屈強な敵。矛先が揃っているのは長柄の雑兵。長短が不同なのは侍の槍である。
  • 敵の気力が盛んな時は受けこらえ、気力が衰えるのが見えたら一気に突きかけるべきである。

 片倉景綱

政宗に過ぎたる者

主君政宗より先に景綱の正室が懐妊した。そのときに「主君よりさきにこができるのは不忠だから生まれたら殺す」と言ったという政宗が説得したので重長(重綱)が無事生まれた。

景綱の評価

景綱の知才は、時の天下人・豊臣秀吉にも高く評価された。奥州仕置のとき秀吉は景綱を直臣に迎えようとして三春5万石の大名に取り立てようとしたが、このとき景綱は政宗への忠義を選んで辞退している。

人取橋の合戦

政宗が人取橋合戦の際、敵兵を深追いし逆に敵兵に囲まれてしまったことがあった。そのとき景綱は「やあやあ殊勝なり、政宗ここに後見致す」などと騙り敵兵を一手に引き付け、政宗の窮地を救ったという。

 竹中半兵衛

秀吉の家臣へ<

信長が竹中半兵衛は家臣にするため秀吉に半兵衛を説得するよう命令した。
秀吉は半兵衛に会いにいき信長に仕えるよう説得するが、半兵衛はこれを6回も断り続けた。しかし、何度も足を運んだ秀吉のい人柄と才能を見込み秀吉は7度目の説得の際に「秀吉の家臣」としてならと承諾を得たという。

最期の忠告

半兵衛は三木城攻めの最中に陣中病に伏せているときに「信長公は英知の方ですが気質は、温厚ではなく偏ったところがあります。ご用心ください」と言い亡くなった。

刀の置き方

「他人の刀とともに一か所に置くと、急な時に取り違えてしまうから、他人の刀が横に置かれたら自分の刀は立てて置き、柄をそろえて置いたら向きを変えよ」と注意を促す言葉を残している。

 黒田官兵衛

秀吉に恐れられた男

秀吉は官兵衛の智謀を非常に恐れていた。秀吉は「恐ろしき者は徳川と黒田である。徳川は温和な人であるが黒田はなんとも心を許し難い人物である」と語ったほど官兵衛を警戒していた。
あるとき、秀吉は酒を飲みながら豪傑は多いがそのなかでも天下を保つほどの人物は誰かと官兵衛に尋ねた。官兵衛が毛利輝元と答えると秀吉は首を振り、ただ、一言「わしの目の前にいる」のちに官兵衛は、秀吉に腹のなかを見透かされ、針の筵に座る心地がしたといっている。
そのため、秀吉が九州を平定した際に官兵衛に一国を与えると約束しながら、官兵衛に与えたのは豊前中津十二万五千石だけだった。

 徳川家康

信玄の死

信玄が上洛目前にして病死した時、天下とりを狙う武将の誰もが喜んだことはいうまでもない。しかし、家康は宿敵の死を無邪気によろこぼうとはせず、部下にこういった。
「信玄という大宿敵のお陰で、我々は緊張し、軍備を整え、よい政治を行おうと務めてきた。今後の気の緩みこそ、もっとも気をつけなくてはいけない。油断、贅沢、不和、裏切り…すべて味方のなかから起こる。これからは、これらに注意しなくてはならない。むしろ信玄の心配よりも大きいだろう。強敵の死は少しも喜ぶべきことではないぞ」と言ったという。

 里見義堯

宿敵・北条氏康

義堯は北条氏と関東の覇権をめぐって生涯争い続けている。北条氏康は義堯が崇敬してやまない僧侶・日我を通じて和議を申し出た事があるが、義堯は日我の申し出でもそれだけは出来ないと答えてたという逸話がある。