【戦国武将達の心に刺さる名言と名句】 

膳

 北条早雲

『守護する百姓、前世の因縁なくして生まれあひがたし。願はくは民豊かにあれかし』

 堀越御所の襲撃に成功し、伊豆一国を手中に収めた早雲は、伊豆地方の領主31家をそのまま重臣にとりたてるなどの仁義を尽くした。
 また、「後北条の四公六民」といわれる農民保護政策を実施して人心を掌握した。
後北条の「四公六民」とはそれまでの五公五民を改め、加えてそのほかの労役なども負担させないというものだ。他国の百姓達もこれを羨ましがり「我らが国も。新九朗(早雲)殿の国ならば」と口々に言い合っていたという。
 しかし、知行主である侍達は不満であり、それを見て早雲は「国主のために民は子なり。民の為に地頭は親なり。」と論したのである。
「我が領地の百姓は、前世からの因縁があってのもの。彼らの暮らしが豊かであれと願っていう」というこの言葉は、その時のものだという。

『刀や衣装を人並みに立派にしようと思ってならない。力以上の身支度で貧乏になれば他人にあざわられるだけだ』

北条家の家訓第6条である。



『手習・学習に志すにはよい友が必要であり、囲碁・将棋・笛・尺八など芸能には、悪い友を避ける必要がる。また芸能は所詮暇つぶしのためで必須ではない』

北条家の家訓第17条である。

北条氏政

『あの刈った麦で昼飯をつくれ』

 氏政は「小田原旧記」に愚か者と記載されているが、それを証明するエピソードがある。
 ある日の昼時、戦陣に赴いていた氏政は、遠くで百姓が麦を刈っているのを見て、家老の松田憲秀に「あの新鮮な麦で昼飯をつくらせよ」とつい口をすべらせた。
このことが武田信玄の耳まで届くと、「さすがは氏政は大身の者だ。いうことが違う。刈り麦をすぐに飯にできると思っていたのか。麦は刈りとり、扱いで、こなして、潤して、ついて、乾かして、水に浸してから煮る。そしてやっと口にできるものだ」と笑った。

武田信玄

『表裏にでてこそ大将というもの』

 ある夜話のときである。家臣達が駿河国の今川義元の接客ぶりを褒めてこういった。「義元殿は器用な大将である。客人に刀や馬など、皆が欲しがっているものをズバリ贈られるのであるから」
この話を聞いていた信玄は、あざ笑うようにしていった。 「それは器用というのではなく、不器用というものだ。器用というのは皆が刀と思うときに小袖を、馬と思うときは一貫分の金銭をといった具合にするものである。戦いも同じこと。敵のきづかないところに出て行ってこそ真の戦法といえよう。大将とは意表にでて、敵を疲れさせ、心を推し量れないような振る舞いをするものである」
 ひとことで言えば神出鬼没。信玄の旗印である「風林火山」はこれを象徴している。


『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵なり』

どんなに立派な城を築いても、国持ちの主将としては無駄である。両国の人民、家臣こそが城であり、石垣であり、堀である。国を守るのは人なので。情けを持ち浮ついた心を捨て、人の和を大事にしなくては国家を持つことはできない

 この歌は甲陽軍艦に記載されている誰もが耳にしたことがある古歌である。
ちなみに、この歌を補足すると思われる文章が「名将言行禄」に記されている。それを要約してみると。

「信玄は生涯甲斐の国に城郭を築いていない。住居の溝は狭く堀は浅い。老臣にそのことを注意されても、信玄は城を持っていたから運が開けるわけではない、といって見向きもしない。主人をもっている武将は、城を築くことが必要だが、対象は法度や軍法を定めだりすることのほうが大切である」

 現に武田氏は城郭を持たなかった。信虎、信玄、勝頼と三代にわたって居城とした躑躅ヶ埼館はシンプルでオープンなつくりで、石垣や堀などは一切なかった。人を頼みとした信玄には、そのような城の必要性を感じることもなかったのだと思われる。


『褒貶(ほめたり、けなしたりすること)ばかりする者は悪人である』

武田信玄の家臣に、只来五左衛門という者がいた。なんども大きな合戦、城攻めに参加しているのだが、これといった戦功を立てたことがない。
しかし、五左衛門は口が上手く自慢話が好きで周囲からみるといかにも、経験豊かな立派な人物に見えるのだった。
また、五左衛門は「他人のうわさ話」にも熱心だった自分の事は棚にあげて、「あの男は強いが猪武者だ」、「女癖がわるい」、「無学だ」といった悪口ばかりをいうのであった。

 近習として信玄の側に仕えていたので、信玄もその話をよく耳にしていたが、聞こえても聞こえないふりをしていた。信玄にはある考えがあったからである。 それを見極めるために、じっと彼を観察することにした。
やがて、武田軍は信州上田塩田で徳川と激戦を交えた、武田家はこの戦で家臣の多くを失ったが、なぜか五左衛門は手傷ひとつ負わず無事だった。信玄は宿将の一人日向大和守を呼び、初めて五左衛門のことを口にしたのである「十度合戦にでて、九度は打ち外したにせよせめて一度の手柄でもあれば、人を批判するのも許される。侍というのは他人の批判がなければ努力を怠りがちになるだろう。しかし、五左衛門は旗本でありながら、かつて一度も手柄をたてることなしに、人の批判ばかりしている。かれのような人間は、人々の怒りを招く悪人である」
信玄の命を受け、日向大和守は五左衛門を捕え処刑したという。

上杉謙信

『卑怯は末代まで武門の笑いの種』

『我は兵を似て戦ひを決せん。塩を似て屈せしむることをせじ』

武田信玄は東海地方の進出をもくろみ十三年間続いていた今川氏との同盟を破棄した。
これに激怒した今川氏真は縁戚関係にあった北条氏康と相談して、海のない甲斐に塩の輸送を絶つ「塩止め」を行った。
これを聞いた謙信は、「戦いは武力で決めるものである。塩の輸送を断って、敵を参らせようとは思わない」といい塩の輸送を止めずに塩を送った。
 また、信玄充ての手紙には「塩を断つとは卑怯な振舞い。末代までの武門の笑い種であり、恥である。海に面した越後は塩の産地ゆえ、必要なだけお送りいたそう」と書かれてあったという



『我ある故に毘沙門あり』

上杉の旗印には「毘」の文字が染め出されてあったが、これは仏法の守護神である毘沙門天のことである。謙信は毘沙門天を深く信仰していた。甲冑に身を固め、右手に宝神、左手に宝塔を持ち、足下に鬼畜を踏みつけいる武神である。謙信が「毘」の文字を掲げたのは、仏に代わって自らが悪を成敗するという意気込みだ。




『人の落ち目を見て攻めとるとは、本意ならぬことなり』

生涯のライバル武田信玄が亡くなった時に放った一言
武田信玄が亡くなったと知らせが伝えられたとき謙信は食事中だったが、口にした湯漬けを吐き出し、涙を流して嘆き悲しんだと伝えられている。 老臣たちはこの機会を逃さず信濃に出陣すべきと信玄した。しかし、謙信は「今出陣すれば、甲斐まで占領することができる。しかし。人の落ち目をみて攻め取るのは本意ではない」といって頑なに聞き入れようとはしなかった。

一方、信玄も嫡男・勝頼にこう遺言を残している「謙信は義人なり。天下にいまだこれに比べられる人を知らず。よいか、このような勇猛な武将と事を構えてはならぬ。この信玄は一生彼と戦うことになったが甲斐の国を保つには、謙信の力に すがるほかない」2人は敵対関係であったが互いに人格・才能を認め合っていたことが伺える。