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【戦国武将達の心に刺さる名言と名句】
目 次
朝倉義景
『憎き景鏡が振舞いかな。我今ここに果つるとも、汝の生命は必ず三年のうちに絶つべし』
朝倉家最後の当主・朝倉義景の最後の言葉。
姉川の戦いで織田に敗れたあと義景は浅井長政を救助するために北近江に向かった。
しかし、家臣の寝返りによって信長の軍に大敗。やむなく逃走をはかったが一族の景鏡の謀反で敵に囲まれてしまった。義景は景鏡の裏切りを恨み、「今ここで死のうとも、お前の命は必ず三年のうちに絶ってやるからな」と言い残して自刃した。
武田勝頼
『御旗、楯無も照覧あれ。明日、是非一線に勝敗を決すべし』
勝頼が長篠の戦いに際に意気込んだ一言である。
1573年、武田信玄が死ぬと、武田家の命運は尽きたとして他国に走る者が続出した。
家康がそのなかの一人、奥平貞昌を長篠城にいれたことから勝頼は腹を立て大軍を率いて長篠城を包囲した、奥平方の救援に駆け付けたのは織田・徳川の連合軍である。
武田の重臣達はひとまず甲府に退くよう進言したが勝頼は聞き入れず、「武田家伝来の宝物、御旗と楯無しの鎧に誓って明日の長篠の一線に勝敗を決しよう」と決戦を誓った。
結果はご存じの通り、武田軍の大敗にて終わった。
山中鹿之介
『願わくば、我に七難八苦を与え給え』
尼子家臣の山中鹿之介が16歳の時、出陣を前に兜の前立てに半月をつけ、三日月に向かって願わくば「今日より三十日のうちに武勇の誉れを得さしめ給え」と祈った。この祈りが通じたのか、鹿之介は菊池音八という豪の者を討ち取ったのである
しかし、これで鹿之介はこれで有頂天になってはいけないと思い、自分を鍛えるために三日月の夜には必ず「願わくば我に七難八苦を与え給え」と祈るのを習慣にしたという。
どんなに困難な状況でもひたむきさに生きる鹿之介の性格は賢母の教えがあったからといわれている。敗れても敗れてもなお望みを捨てない強い意志は後世になっても称賛され、江戸時代の儒教者頼山陽は「虎狼の世界に麒麟をみる」と評している。
柴田勝家
『先陣の大将たる者、威権なきときは下知行なわざるものなり』
あるとき勝家は、信長に先陣の大将の役を命じられた固辞したが許されず、しぶしぶ承諾して退出したところへ一人の武士が出合いがしらにぶつかってきた。
一言のあいさつもなく行こうとするので、勝家は怒り、ついに切り捨ててしまったのである。このことを信長に攻められると、勝家はこう答えた。「だからこそ、先陣をお断りしたのです。先陣に立つ大将たる者は、威厳がなければその命令も聞かれないのです。」
明智光秀
『吾が敵は本能寺にあり』
明智光秀が本能寺の変で叫んだ一言、この言葉と共に本能寺を襲ったといわれている。
豊臣秀吉
『戦さは六、七分の勝を十分となす』
別所長治の討伐にあたっていた秀吉は長治の野口城を攻撃していた。城主の長井四郎左衛門はよく防戦したが、いよいよ秀吉の軍が場内に突入するというときになって降参を申し出たのである。
これに納得のいかない秀吉の軍は「降参するしないはもっと前の話しであろう。今更なにをいうか。一挙につぶしてしまえ」と一層興奮していた。
しかし、このとき秀吉は「戦は六、七分の勝を十分となす」と長井の降伏を受け入れたのである。
死を覚悟した人間は強くなり、敵をそういう状態に追い込んで戦えば、味方に多くの死傷者をだしてしまうもの。それは一番まずいこと。
秀吉は敵に逃げ道を作っておことが早く勝つ方法であると考えていた。また役に立つ人物なら将来に備えて味方に加えたほうが得策だとも考えていた。
信長による武田征伐の際に勝頼が自刃した時には「勝頼に甲信二州を与えて関東の先陣にしたら東国は思いのままだったろう」と残念がっていたという。
『金銀多分積みおくは、よき士を牢におしこめおくにひとし』
天下人になり何もかも手にいれお金を使って豪華な「遊び」をしていた豊臣秀吉が言ったことば。
秀吉は「金銀はどんどん使ってこそ生きる。しまい込んでおいては、有能な武士を牢屋に押し込めておくようなものだ」というひとつの金銭感覚を持っていた。