京極騒乱に敗れ出雲へ下向こうした京極当主
京極 政経
ポイント
- 京極持清の三男
- 出雲・隠岐・飛騨・近江の守護大名京極家当主
- 京極騒乱に敗れ近江から追放される
概 要
京極持清の三男。父・持清の死去後、京極家の家督を継いだ長兄・勝秀の嫡子・孫童子丸を補佐するが1年後に孫童子丸が死去し京極家の家督相続。しかし、これに反発した京極高清、政光らに敗れ出雲へ下向し死去する。
基本情報
| 誕 生 | 1453年 |
| 没 年 | 1502年(64歳 病死)異説あり |
| 別 名 | 政高 |
| 偏 諱 | 足利義政 |
| 戒 名 | 栖雲寺殿巨川宗済 |
| 幕 府 | 室町幕府相伴衆、近江・出雲・隠岐・飛騨守護 |
| 官 位 | 従五位下大膳大夫 |
| 氏 族 | 京極氏 |
| 主 君 | 足利義政→義尚→義稙 |
| 家族構成 | |
| 父 | 京極持清 |
| 母 | 不明 |
| 正 室 | 不明 |
| 兄 弟 | 勝秀、政光、政経、畠山政長の正室 |
| 子 | 経秀(材宗) |
| 養子? | 高清 |
同じ年の武将
略 歴
| 1453年 | 1歳 | 京極持清の三男として誕生 |
| 1467年 | 15歳 | 応仁の乱が勃発 |
| 1468年 | 16歳 | 長兄・勝秀が死去 |
| 1470年 | 18歳 | 父・持清が死去 孫童子丸が家督を相続し補佐する 京極政光が京極高清を擁立し政経に反発(京極騒乱) |
| 1471年 | 19歳 | 孫童子丸が死去 政経が家督を相続する |
| 1473年 | 21歳 | 出雲・隠岐・飛騨・近江守護職に任じられる |
| 1477年 | 25歳 | 応仁の乱が終結 近江を解かれ六角高頼が近江守護に就任 |
| 1488年 | 36歳 | 近江松尾(伊香郡)で高清に敗れる |
| 1489年 | 37歳 | 近江国人衆の協力を得て高清を追放 |
| 1491年 | 39歳 | 幕府から京極氏当主と近江守護に補任される |
| 1492年 | 40歳 | 10代将軍足利義稙に家督を取り上げられ、高清に与えられる |
| 1493年 | 41歳 | 明応の政変で立場が逆転して政経が復帰 |
| 1495年 | 43歳 | 高清に敗れ出雲へ下向 北近江は高清、南近江は高頼が領有することになる |
| 1508年 | 56歳 | 死去 |
誕生と孫童子丸の補佐役
1453年、京極家の当主・京極持清の三男として誕生した。
1467年に応仁の乱が起こると、京極家は親族である細川勝元の東軍に属して西軍に属した六角高頼と近江で戦うが、その最中の中1470年に病死する。
長兄の勝秀は既に亡くなっており、甥で勝秀の嫡子・孫童子丸が家督を継ぐがまだ5歳だったため政経と守護代・多賀高忠がこれを補佐した。
京極騒乱
政経が補佐し京極家の家督は孫童子丸が継承したが、これに反発した政経の次兄・京極政光と多賀清直が孫童子丸の庶兄・高清を擁立し六角高頼と結び西軍へ寝返った。
これにより京極家で家督争いが勃発「京極騒乱」が起きた。
孫童子丸を擁立した政経だったが、孫童子丸は家督継承からわずか1年後に死去、家督は政経が継ぐが高清派との抗争は継続された。
政経派は、家臣の多賀高忠・六角政堯らの働きで一時は近江を制圧したが、六角政堯が敗死すると形勢は逆転、高清は六角高頼と美濃の斎藤妙椿を援軍と合流し政経を敗走させた。敗れた政経は高忠と共に越前に逃れた。
越後に逃れた政経だったが1473年に出雲・隠岐・飛騨・近江守護職に命じられ1475年には幕命を受け、高忠と小笠原家長(松尾小笠原家当主)と共に観音寺城下で高清・多賀清直父子・六角高頼と戦い大勝するが、西軍に属した土岐成頼、斎藤妙椿らの軍が高清軍へと加わり、最後は敗れた。
1477年に応仁の乱が終わると、翌年には近江守護を解かれ、六角高頼が再び任命された。
その後も、高清との衝突は度々勃発、1489年に近江国人衆の協力を得て高清を追放、1490年に幕府から京極氏当主と近江守護に補任されるが、2年後の1492年に政経が配下の国人衆の寺社領横領を止められなかった事が義稙の怒りを買ったことから10代将軍・足利義稙に家督を取り上げられ、高清に与えられる。
しかし、翌年の明応の政変で立場が逆転して政経が復帰、没落した高清は舅の斎藤妙純の支援で北近江に進出、政経はかつての敵・六角高頼と結んで内乱を再開する。
美濃の内乱(船田合戦)を制した斎藤妙純が近江に出兵、政経は敗れて出雲へ逃亡。その結果、北近江は高清、南近江は高頼が領有することになった。
死去
出雲に下向した出雲守護職として守護代・尼子経久と協調した。
また、没年には2つの説があり、佐々木文書では1508年に孫の吉童子丸(材宗の子)へと家督を譲り、出雲安国寺で56歳で亡くなったという説。
もう一説である西讃府史では1502年に50歳で亡くなったとされている。晩年は出雲に在ったとされ、尼子経久に吉童子丸の身を託したとされる。京極氏代々の事跡を集めた佐々木文書はここで尼子氏の手に移ったとされる。
吉童子丸のその後の行方は分かっておらず、出雲は戦国大名となる経久の領国となる。