徳川家康の娘を娶り徳川一門となった会津藩主

蒲生 秀行がもう ひでゆき

ポイント

  • 名将・蒲生氏郷の嫡男
  • 徳川一門となる会津60万石の藩主となる
  • 30歳の若さで早死

概 要

父は信長や秀吉のもとで活躍した蒲生氏郷。父の死後に家督を継ぐが若年だったため会津91万石から宇都宮18万石で移封された。その後、家康の娘と結婚したため、関ケ原合戦では東軍に属し宇都宮で上杉景勝を牽制した。戦後、その軍功によって上杉領のうち陸奥会津に60万石与えられ会津に復帰した。しかし、会津地震や家中騒動などが重なり、その心労のせいか30歳で死去した。

基本情報

誕 生1583年
没 年1612年(30歳 病死)
墓 所弘真院(福島県会津若松市門田町)
安国寺(供養塔)(熊本県熊本市中央区横手)
幼 名鶴千代
通 称藤三郎、飛騨守
別 名 秀倶、秀朝、秀隆、羽柴秀行
戒 名弘真院殿覚山浄雲大居士
官 位従四位下飛騨守、侍従
主 君豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
陸奥会津藩主
氏 族蒲生氏
家族構成
蒲生氏郷
相応院織田信長の次女)
正室正清院徳川家康の三女)
兄弟籍(前田利政の正室)、武姫(源秀院、南部利直の正室)、氏俊、秀行
忠郷、忠知、崇法院(加藤忠広正室)

同じ年の武将

略 歴

1583年 1歳  蒲生氏郷の子として誕生
1595年 歳  父が急死したため家督を継ぐ
蒲生騒動が勃発
1583年 歳  元服
1595年 13歳  父・氏郷が死去し家督を継承する
蒲生家で家臣同士の対立が勃発(蒲生騒動)
1596年 14歳  元服
1598年 16歳  宇都宮18万石に減封
1600年 18歳  関ケ原の戦いで東軍に属す
戦後の戦功によって会津60万石に復帰
1607年 25歳  徳川家の苗字を拝領する
1609年 27歳  家中騒動が勃発
1612年 30歳  死去

誕 生

1583年、織田家や豊臣家で功績を挙げた名将・蒲生氏郷の嫡男(次男あるいは長男)として生まれる。
秀行は生まれながら病弱だったため、京の南禅寺に入れて僧にし、修行をさせた。武将の器になれたなら世継ぎとし、武将になれなそうなら僧として過ごさせる気だったという。

家督相続

1595年、13歳のころに父・氏郷が急死したために家督を継ぐ。しかし、総石高の過小申告について遺領相続問題が起こり、豊臣秀吉は、会津領を収公して改めて近江に2万石を与えるというもので、秀行の会津領の相続を認めながらいったん所領を収封した。(諸説あり)
その後、関白・豊臣秀次が会津領の相続を認めて会津91万石の相続を許された(※秀吉の命で徳川家康の娘・振姫を正室に迎えることを条件に相続が許されたとも)さらに、秀吉の命令で会津若松城と7つの支城(米沢城・白河小峰城・田村城・二本松城・白石城・津川城・梁川城)以外の城は取り壊すように命じられ、徳川家康の指揮下で成田氏長と大田原晴清が破却を担当しているた。
家督を相続した秀行だったがまだ若年で父に比べて器量に劣っていた、そのため家中を上手く統制できず、ついには重臣同士の対立を招いて御家騒動(蒲生騒動)が起こった。秀吉は事態を重く見て、前田利家に調停を任せた。また、同じく上杉景勝には津川城に城将を入れるよう命じ、不測の事件発生に備えた。津川城を含む東蒲原が正式に景勝に与えられると、藤田信吉が城主となった(前田家には上杉旧領から新川が与えられた)。
1596年に元服し、「秀朝」と称し、後に「秀隆」「秀行」と名乗ったと言われる。

宇都宮18万石に減封

1598年、秀吉の命令で会津若松から宇都宮18万石で移封された。理由は下記の3説ある

13歳の秀行には東北の守りは心細かったため

氏郷時代に蒲生氏は91万9300石の禄を得ていたが、氏郷が急死し跡を継いだ秀行がわずか13歳の幼少だった。そのため伊達家や上杉家などいつ裏切ってもおかしくない大名達の監視として心細く、東北の守りとして91万石もの所領を支配するのは荷が重かったため。また、重臣間の争いも重なり18万石に減封された。

秀吉の腹いせ

氏郷の正室で秀行の母であった相応院(織田信長の次女)はとても美しかったため、秀吉は氏郷没後に自身の側室にしようとした。
しかし、相応院は氏郷を想い尼になって秀吉の側室を断ったこれを不愉快に思った秀吉は蒲生家に減封を命じた説。
ちなみに、氏郷も生涯側室を持たなかった。

石田三成院陰謀説

秀行が家康の三女を娶っていた親家康派のだったため石田三成が蒲生家ののお家騒動を口実に減封を実行したとする説。



宇都宮に移封した秀行は武家屋敷を作り町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行ない、蒲生氏の故郷である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した。

関ケ原の戦いと会津再封

1600年、上杉景勝が会津で挙兵したため、徳川家康率いる上杉討伐軍が宇都宮に入城した。その後、西で石田三成が挙兵したため、家康や秀忠が西に向け宇都宮から軍を出陣した。(関ヶ原の戦い
秀行は本拠の宇都宮で上杉景勝(秀吉に旧蒲生領の会津を与えられた)の軍の牽制と城下の治安維持を命じられた。

関ケ原の戦いが東軍の勝利によって終わると、秀行はその軍功によって、上杉家領のうちから蒲生氏の旧領であった陸奥会津60万石を与えられて会津に復帰した。
秀行は家康の娘と結婚していたため、江戸幕府成立後も徳川氏の一門衆として重用された。 その後、江戸幕府が創立すると1607年に松平の名字を与えられた徳川家の一門として重用された。

最 後

1609年、重臣である岡重政が同じく重臣の蒲生郷成や関元吉らが対立し、蒲生家で再びお家騒動が勃発し敗れた蒲生・関らが出奔した。
加えて1611年に会津地震が起きると秀行の地震とお家騒動などの心労から大酒を飲むようになり1612年に死去した。享年30歳であった。