概 要
黒田家臣で黒田二十四騎の一人。太兵衛の通称で知られている。
槍術に優れた勇将のほか、福島正則とも飲み比べに勝利し、名槍「日本号」を勝ち取った逸話が有名。
関ケ原の合戦後は筑前鷹取城1万8,000石を拝領した。
ポイント
- 黒田二十四騎、黒田八虎の一人
- 槍術に優れた勇将で酒豪
- 関ケ原合戦後は筑前鷹取城1万8,000石を領した
誕生・死没
- 誕生:1556年
- 死没:1615年
- 享年:60歳
- 墓所:麟翁寺(福岡県嘉麻市)
名 前
- 幼名:曽我万助
- 初名:政国
- 通称:太兵衛、多兵衛
- 戒名:麟翁紹仁
氏 族
- 曽我氏 → 母里氏
同い年の人物
略 歴
| 1556年 | 1歳 | 播磨国人・曽我一信の子として誕生 |
| 1569年 | 14歳 | 黒田官兵衛に仕える |
| 1573年 | 18歳 | 初陣 |
| 1578年 | 23歳 | 官兵衛が荒木村重に幽閉される |
| 1587年 | 32歳 | 秀吉による九州平定 官兵衛が豊前6郡を与えられ友信も5000石を拝領する |
| 1598年 | 43歳 | 宇佐神宮の造営にあたる |
| 1600年 | 45歳 | 関ケ原の合戦に参陣 合戦後筑前鷹取城1万8,000石を拝領した |
| 1606年 | 51歳 | 益富城主となる |
| 1608年 | 53歳 | 長崎街道の冷水峠の整備を行う。 |
| 1615年 | 60歳 | 死去 |
出 自
1556年、友信は播磨国飾磨郡妻鹿の国人で小寺家に仕えていた黒田家の与力・曽我一信と黒田家の重臣であった母里家の娘との間の子として誕生した。
そのため、友信も1569年頃に黒田官兵衛の家臣として仕えた。
1569年、赤松家との戦い(青山・土器山の戦い)が勃発すると、黒田家の重臣であった母里家の一族24人らが戦死した、母里家の断絶を惜しんだ官兵衛は曽我一信と母里氏の女との間の子であた友信に母里姓を与え、母里氏を継がせることとした。こうして曽我友信は母里友信(太兵衛)と改めた。
官兵衛の家臣として
1573年に初陣を飾ると、常に先鋒を務めて活躍した。1578年に荒木村重によって官兵衛が捕らえられると栗山利安・井上之房と共に有岡城に潜入し、孝高の安否を確かめた。また、その後も官兵衛に従い中国・四国を転戦し、1587年の九州征伐では、豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げ、官兵衛が豊前6郡を与えられると友信も5,000石(後に6,000石)を与えられた。
官兵衛の死去から2年後1606年、黒田二十四騎のひとり後藤基次が黒田家から出奔した後、その領地に移されて益富城主となる。この頃に長政から「但馬守」の称号を与えられる。また、江戸城の普請に際して天守台石垣を担当し、それが完成した後に徳川家康からそのねぎらいとして刀を与えられたが、その書状の宛名が「毛利」と誤って記されていたため、長政の命により以後「毛利但馬守友信」を名乗ることとなる。
その後、秀吉による朝鮮出兵にも官兵衛の嫡男・
関ケ原の合戦後
逸 話
親友・吉弘統幸
之房が石垣原の戦いで討ち取った吉弘統幸は、大友氏の改易後、立花宗茂に仕官するまでの間、之房の元に身を寄せていた。統幸は豊臣秀吉から「無双の槍使い」と賞讃されて一対の朱柄の槍を許されていた豪傑であったが、敵将・小田九朗左衛門など30~40人を自ら討ち取るも重傷を負い、友の之房に功を挙げさせるため、自刃して討たれたといわれる。
