元忠の三男。関ケ原の戦い、大阪夏の陣で活躍する

鳥居 成次とりい なりつぐ

概 要

徳川家臣。鳥居元忠の三男。幼少期より父・元忠、兄・忠政と共に家康に仕え関ケ原の戦い・大阪夏の陣で活躍する。江戸幕府創立後は秀忠の次男・忠長に仕えた。

 ポイント

  • 鳥居元忠の三男。家康に仕え関ケ原の戦い、大阪夏の陣で活躍する
  • 谷村藩初代藩主
  • 徳川秀忠の次男忠長に仕えるが、後に忠長と共に失脚する

誕生・死没

  • 誕生:1570年
  • 死没:1631年
  • 享年:62歳
  • 死因:病死
  • 墓所:神田吉祥寺

名 前

  • 久五郎(幼名)
  • 土佐守(通称)

官 位

  • 官位:従五位下土佐守

所 属

親 族

: 鳥居元忠
: 松平家広の娘
兄弟: 康忠、忠政成次
  忠勝、忠頼、忠昌
  土岐定政の正室、真室御前
 子: 鳥居忠房(長男)、鳥居忠春(次男)、娘(井上正利正室)
、娘(日向政次室)、娘(八木豊次室)
養 女 養女に久永重知室(里見忠義娘)

略 歴


1570年 0歳  鳥居元忠の三男として誕生
1600年 30歳  関ケ原の戦いに参陣
甲斐東部2万国を統治する
1603年 33歳  徳川義直(家康の九男)の家臣となる
1607年 37歳  従五位下土佐守に叙任
1612年 42歳  御室浅間神社本殿の造営を行う
1615年 45歳  大阪夏の陣に従軍
1616年 46歳  徳川秀忠の次男(忠長)の御附家老(征夷大将軍より直接命を受けて附属された家老)となる
1624年 54歳  駿河国において加増を受け、3万5000石を領する
1631年 61歳  忠長が蟄居処分となり成次も失脚する
死去

鳥居家とは

出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄

鳥居家の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。

誕生と家や家康時代

鳥居元忠の三男として誕生

徳川氏の家臣・鳥居元忠の三男として三河国にて誕生した。
幼少時より父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでも活躍して戦功を挙げた。

父の仇・石田三成に賞賛された器

父・元忠は先の伏見城攻防戦で石田三成らによって攻め殺されていたが、戦後に三成の身柄を父の仇として預けられた。
成次は三成を少しも恨まず、逆に小身ながら大身の主家によく抗した人物として衣服を与えて手厚く厚遇し、三成は成次を大いに賞賛したといわれている。

関ケ原合戦後

甲斐東部の郡内領2万国を統治する

関ヶ原合戦で勝利した家康は、豊臣系大名が領していた甲斐国を再び直轄領化した。
甲斐一国のうち甲府を中心とする国中地方は城代・平岩親吉による統治が実施されていたが、甲斐東部の郡内領2万石は豊臣系大名支配以前に父・元忠が支配していたため、成次が谷村城に在城して独自の統治を行った。

大阪夏の陣

1615年の大坂の陣にも従軍し、5月7日一日で首28級を上げる大功を立てた。

晩年

徳川忠長(秀忠の次男)の附家老

1615年、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の次男・忠長が甲斐を拝領し、成次は郡内領主の地位は保ちつつ甲府の朝倉宣正とともに忠長の附家老となった。1616年には北口本宮富士浅間神社の本殿の造営を行った。
1624年、忠長は駿河・遠江・信濃国小諸を加増され、成次も駿河国において加増を受け、3万5000石を領する。忠長領の拡大に伴い支配機構の再編が行われ、朝倉宣正が東海地方担当として遠江掛川城へ移ったため、成次は甲斐支配を一任した。

忠長の失脚

1631年、忠長は数々の乱行(乱暴な行い)を行ったため、3代将軍・徳川家光により蟄居処分となった。そのため郡内領を含む忠長の領地は没収され、これに伴い成次や朝倉宣正らも失脚した。
成次は赦免に奔走しているが、同年1631年6月18日に死去した享年62歳であった。