家康の三男。厚い人望を見込まれ江戸幕府2代目将軍となる

徳川 秀忠とくがわ ひでただ

徳川秀忠(松平西福寺蔵)

概 要

徳川家康の三男として誕生。長兄・信康が自害、次兄・秀康が豊臣秀吉に養子入りしたため徳川家の家督を継いだ。
関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、本戦に間に合わなかったため家康から𠮟責されるが、その後二代目将軍となると独自の政治を行い徳川幕府の権力を確かなものにした。

 ポイント

  • 徳川家康の三男。徳川幕府2代目将軍
  • 武運に恵まれなかったが人望厚い武将
  • 禁中並公家諸法度の制定、キリシタン禁制の強化、貿易の制限などの諸施策を行った

誕生・死没

  • 誕生:1579年
  • 死没:1632年
  • 享年:54歳

名 前

  • 長松(長丸)→竹千代(幼名)
  • 忠康(初名)
  • 江戸中納言、江戸右大将(別名)

親 族

実父 徳川家康
実母 西郷局
養母 阿茶局(曇光院)
小姫
継室
側室 於静
小姫
兄弟 信康(長男) 、亀姫(長女) 、督姫(次女)
   結城秀康(次男) 、秀忠(三男)忠吉(四男)
   振姫(三女) 、武田信吉(五男) 、松平忠輝(六男)
   松平松千代(七男) 、平岩仙千代(八男)
   徳川義直(九男)(尾張)、徳川頼宣(十男)(紀伊)
   徳川頼房(十一男)(水戸) 、 松姫(四女) 、市姫(五女)
養子 松平家治松平忠政松平忠明
小松姫(本多忠勝の娘) 、満天姫栄姫
阿姫連姫振姫
久松院 、浄明院、流光院
梅貞大童子

略 歴


1579年 0歳  徳川家康の三男として誕生
長兄・信康が死没
1590年 11歳  豊臣秀吉のもとへ人質として上洛
元服
1600年 21歳  関ケ原の合戦(上田城攻め)
1603年 24歳  右近衛大将に任命
1605年 26歳  征夷大将軍となる
1614年 34歳  大阪冬の陣に出陣
1615年 35歳  大阪夏の陣
1623年 42歳  隠居し家督を家光に譲る
1632年 52歳  隠居し家督を家光に譲る

誕生と幼少期

徳川家康と三河の名家の西郷家の西郷局との間で誕生

1579年、徳川家康の三男として誕生する。母は土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家である出の西郷局。 西三河の土豪から伸し上がった徳川家(松平家)は、三河での覇権が確立して後も、かつて同格であった旧同輩の豪族による反乱に悩まされ続けていた。そのような中で、土岐氏一門の三河西郷氏は三河の旧守護代家として、下克上の戦国時代では家格は高かったという。
同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。
秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹した。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子(事実上の人質)として出され、後に結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な後継者として処遇されることになった。

幼少期は人質として豊臣家で生活する

1590年、小田原征伐に際して実質的な人質として上洛し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と婚姻した。(この婚姻は信雄と秀吉の対立により離縁となる)
同年、秀吉に拝謁した長丸(秀忠)は元服して秀吉の偏諱を受けて「秀忠」と名乗ったとされ秀吉から、豊臣姓を与えられた。
小田原征伐後には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている。

関ケ原の戦い

江(豊臣達子)との婚姻

1595年、秀次事件が起きると、京に滞在していた秀忠は秀次に人質として捕らえられそうになると伏見に一時移動している。
秀次の切腹によりお拾が秀吉の後継者に定まると、淀殿の妹が秀吉の養女として秀忠と再婚する。(後に二人の間に生まれた千姫は秀吉の子・秀頼と婚約させられた。)また秀吉から、羽柴の名字を与えられた。 その後も畿内に留まることの多い家康に代わり関東領国の支配を行い、江戸城本丸は「本城」として秀忠が住む一方で、新たに整備された西之丸は隠居曲輪として家康が帰国した際の所在地となった。また秀忠自身も度々上洛している。

中山道を通り信濃の真田家と対峙する

1600年の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を通り西上する別働隊の指揮を命じられた。
しかし、西軍側についた信州上田城の真田昌幸に行く手をさえぎられ(上田合戦)関ヶ原本戦には間に合わず、大津に到着した秀忠に対して家康は、急な行軍で軍を疲弊させたことを叱責した(遅参が理由では無い点に注意)。
ちなみに、家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。本多忠勝は「秀忠軍を待つべし」と主張し、井伊直政は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。

将軍就任

右近衛大将就任

1603年、征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。
それまでの武家の近衛大将任官例は武家棟梁にほぼ限られ、征夷大将軍による兼任が例とされていた。これにより、徳川家の将軍職世襲がほぼ内定し、また秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。

征夷大将軍就任

関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。
その2年後の1605年、正月、秀忠は征夷大将軍就任のため関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛した。
秀忠は伏見城へ入ると家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。

秀忠の政治

江戸の秀忠、駿府の家康の2政治体制のもと東国を中心とした大名の統率にあたった

秀忠の征夷大将軍就任後しばらくは、秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との外交を担当した。
将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を行う。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設して、自身に直結する軍事力を強化した。

家康からの政権受け渡し

秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更し、さらに諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更され家康から秀忠への財政の譲渡が行われた。

大阪冬の陣と夏の陣

冬の陣

大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。
しかし、家康はこれを無視し、自身がまず上洛して情勢を確認し、問題がなければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、秀忠は自身が兵を率いて上洛すると提案し、これが受け入れられた。
江戸を出陣した秀忠は関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと行軍を急ぎ、家康より進軍速度を落とすようを求められるがこれに応じず、伏見まで17日間で到着する異例の速さであった。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。これを知った家康は激怒し秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。

夏の陣

「夏の陣」で行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始され、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。

豊臣家滅亡後

家康が死去し外交権なども将軍のもとに吸収する

豊臣家滅亡後、家康が死去すると家康のブレーンとして駿府政権を支えた家臣達を江戸政権に合流させ、家康遺臣の一部を幕閣に合流させた秀忠は将軍親政を開始し、これまで江戸政権を支えた近臣である酒井忠世・土井利勝ら老中を幕府の中枢として、自らリーダーシップを発揮した。また駿府にいた家康旗本のため、江戸に駿河町が新たに整備された。

<5>キリシタン禁制

元和2年にはキリシタン禁制に関連して、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定した。また子の国松(徳川忠長)を甲府藩主に任じた一方、家康が生前に勘当した弟・松平忠輝を、改めて改易・配流に処した。6月には軍役改定を布告し、親政開始に際して改めて自身の軍権を誇示した。

人 物

武将としての評価

武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている。
結果として秀忠は父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

逸 話

冷静な大将

大坂の陣の後のことであるが、弟・義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない、下手に動かないほうが安全」と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている

授業中に牛乱入

13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して騒ぎとなったが、秀忠は冷静に講義を聴き続けていたという。

厳罰主義

江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れで磔に処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。

茶人としての活躍

茶の湯を古田織部に学んで特に愛好した茶人でもあり、織部が切腹となった後も織部遺愛の道具を用いて茶会、あるいは数寄屋御成を度々行った。

人の刀を勝手にあげた

小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」を愛刀としていたが、嫡子忠利が所望しても与えないので、親子関係がぎくしゃくしていた。この事情は聞いた秀忠は、細川父子を伴として浅草川に水浴に出かけ、忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘った。
秀忠は、忠興より先に水浴びを済ませ、忠興が川辺に置かれていた大三原を手に取ると、一人川に入らず側に控えていた忠利に気を利かせて、「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。(将軍が仲介しているのだから、)忠興のやつもまさか異議は申すまい」と堂々と宣言して、大三原を忠利に与えてしまった。
このときのやりとりは実は忠興にも聞こえてはいたのだが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという。秀忠の大物ぶりに感化されたのか、忠利は後に大三原を気前よく弟の立孝に譲っている